見るなキタ━(゚∀゚)━!

トイレの「小」の方で流せるタイプの文章を書きます。そしてお前を許さない。

zatu

雑記

 

THE・気(悟空とかが使うベーシックな気のこと)

 

人と人って他人でなんにも同じじゃないから仲良くなれるんだね。

グレッグ・イーガンの『ふたりの距離』ではある恋人が身体入れ替えたり同じ身体作ったり雌雄同体にしたり精神融合させたりしてほんとうの意味で「一つ」になろうとした結果、相手のことが何もかも分かって興味がなくなってしまう。

グレッグ・ベアの『鏖戦』でも「楽しさとは、誰かが自分とはちがったものの見方、感じ方をしてるかもしれないという認識のことだよ。それは個性を認めることに通じる」って台詞がある。これも最終的には殲滅優先のクローンが世代を重ね全ての差異が消え、揺蕩いも歪みもなく、そこにある現実をただ消し去り優越するだけの天使になるという話だった。(セリフ抜き出すのに今ちょっと読み直した)

だから人と人が理解できないくらい全然違う人間だから仲良くなれるんだって話で、だから人を好きになったり話をしてみたいな、何考えてんのかなあいつは、って思えるんだよね。

そしてそれは絶対に争いはなくならないってことなんだよ。

だって違う人間なんだから喧嘩しないはずがないんだ。綺麗好きと汚え人間が一緒に暮らしたら「せめて週イチで掃除機かけろよ」「そんなに綺麗にしなくても生活できるだろ」って言い合う。別の人間だからね。それぞれ人生があって好きな人がいて好きなことがあって辛いことがあれば、どっかで絶対ぶつかる。人類75億人もいるし。

でもそれはそれぞれ差異があるからで、差異があるから仲良く出来る。喧嘩と好きはワンセット。

喧嘩せずに仲良くしましょうなんて言えないよな。差異の排除なんて以ての外。違う人間がいればいるほど良いんだから。いればいるほど誰かと誰かは仲良くなれる。争いは絶えない。

だからこそ、どれだけ喧嘩しても最後は「ノーサイドゲーム」つって自分の生き方や個性のために戦った後は握手出来るようになりたいね。そのためには相手をよく知って、自分は強くならなきゃね。

めちゃくちゃ好みの話するけど、『からくりサーカス』のマサルがさ、もともといじめられっ子だったのに自分を助けてくれた鳴海お兄ちゃんとの冒険を経て学校でのいじめに笑って流せるようになるって話があって、俺はそれすごいかっこいいと思うんだよ。多少なら笑って流せる強さがあれば生きるのって楽しくなると思うんだわ。

ちょっと話逸れた。

これも『鏖戦』の話なんだけど憎しみって相手を殺すための感情で、それは相手を知らないことで保たれるんだよね。知ってしまえばただ生存しようとしている生物でさえ親近感を覚えてしまう。なぜなら生きようとする生物は結局自分たちと同じことを考えているから。

ノーサイドゲームにするためには憎しみで勝ってもダメ。知らなきゃならない。知るってことはすっげえ考えるってことだ。ずっと考え続けることだ。他の人からは多分めんどくせえヤツって思われるけど、諦めちゃダメだと思う。

さっきTwitterで「ポリコレは息苦しさを解消するものなので、ポリコレがはびこって息苦しいと語っているやつは今までのびのび暮らしてた強者だ」(意訳)ってのがあって、もっともらしいんだけど、こいつが言ってるポリコレって何のこと言ってるのか、息苦しさって具体的にどういうものなのか、例えば社会的な差別なのか、雇用機会の差なのか分からない。ポリコレって言葉も不本意かもしれないけど「ポリコレ棒」とかいって揶揄されてる言葉でどんなとり方でも出来るし、この人が言ってるポリコレはただ社会の女性参入とか同性婚を認めようって話で過激なものではないかもれないし、なんにも分かんない。

分かんないから無差別に攻撃されてるように感じるし分かんないからどうとでも解釈できて賛同も憎しみも湧く。

本来なら分からないことが分かるまで(今回の場合相手と自分の語義を定めるまで)話し合わなきゃいけないのにネットじゃそれも出来ない。

まあだから結論はTwitterはまじで分からないことで憎しみを発生させる状態異常兵器なんだわ。怖いね。(だからいい加減TwitterYouTubeや漫画アプリのコメ欄を覗くのをやめろと自分に思うが、なんでか辞められない。依存じゃん。怖いね)

分からないことが分かるまで一杯考えていきたいですね。

分からないことが分からないってこともあると思う。俺はここ2年くらいそうだった。今も頻繁にそう。だからキレ散らかす。分からないことが分からないってことは意識できないってことで、そしたらもうどうしようもない。

分からないことが分かるようになるには質問するしかない。「つまりそれってどういうことですか?」「具体的にはなんですか?」「それはなんでそう思ったんですか?」

コミュニケーション。特に短い言葉は信じないこと。

「定義とか意味とかうっとおしいな。どうでもいいじゃん。楽しいこと考えなよ」ってバカにされるし嫌がられるだろうけど、ここは絶対折っちゃいけない部分だと俺は思う。

 

 

bunshun.jp

終戦の日で最も印象に残っているのは、家に帰った時のことですね。かつてこの戦争が始まった日に「負けるぞ」と言った親父が、憮然とした顔をして待っていたからです。とくに話すこともなく夕食となり、お粥を啜りながら私は不安になって聞いたものです。「男はみんな奴隷になって、女はみんなアメリカ兵の妾になるんだよね」と。

 そのとき親父が言った言葉は今でも忘れられません。
「馬鹿もん! おまえ、なにを考えているんだ。空襲で川の中に落ちて、水をガブガブ飲んで、まだ頭に水が溜まっていて変になったんじゃないか? 日本の男を全員奴隷にしてどこかへ連れていくのに、どれだけの船がいると思う? そんな船があるわけはない。女たちを妾にする? それをアメリカの女たちが黙って見ていると思うか? そんなことはできっこないんだ」
そのとき初めて、私は自分の親父を尊敬しました。「リアリズム」なんて言葉は知りませんでしたが、まさに親父のリアリズムにはっとさせられたわけです。
パッと目が覚めたように、「そうだよな。そんなことはあり得ないんだ」と思った私は、「要するに、今まで言われていたことは全て嘘だったんだ」という気持ちになりました。

 

これ見て感動しちゃってさ、逆張りとかいうと「捻くれてるな」って馬鹿にされるけど、本当の意味での逆張りっちゅーか、「それは本当か」って疑っていくことって大事だな。と思った。

逆張りに自信を持とう。世の中は常に流れを持ってる。それはたいてい嘘だ。事実に流れがある訳ないからな。だから流れに棹差し、考えていかなきゃな。人間は人間なんだ。

前も言ったけど、きっと現在と過去はシステムや物理的なブツが違うだけで、もしも1000年前に今のシステムや技術をそのままぶちこんでも、最初こそ戸惑うだろうがすぐに今の人間生活と同じになると思うんだよね。動物ってそんなもんだ。

 

まとめ

まとめられるか不安だし繰り返しになると思うけど俺が言いたいのは。

「仲良しが良いじゃん」「人を傷つけるのは良くないよ」「イチャラブ尊い、これだけでいい」みたいな「争いなんてなくなればいいのに」って考えは諸手で賛同されるけど、「仲良しじゃない」ことと表裏一体なんだよってこと。人と意見が合わないとか、喧嘩しちゃうとか、嫌いだとか、迷惑なやつだとか、それがあるから人を好きになれる。人を好きなるから誰かを嫌いになる。それはどっちだけってないのよ。

もし仲良しだけの理想郷があるとすれば、『ふたりの距離』みたいに感情はなくなって『鏖戦』のラストみたいに今ある現実は棄却される。

これは他のことでもそうで、目を覆いたくなる話だけど、人が死ぬから人を大切に出来るし、人を殺せるから人を殺すのは良くないって言える。人の命なんかどうでもいいじゃんって世界だったら誰も好きな人が死んでもなんにも思わないのよ。どうでもいいんだから。

俺たちは例えば命を大切にしなきゃいけない、誰も殺してはいけないって言わなきゃいけないしそっちのほうが俺は良いと思うんだけど、だからといって誰かが殺されるって出来事は絶対なくならないしなくしちゃいけない。矛盾するようだけど。そこから目を背けていけない。考え続けて行かなければならない。

そういう訳で俺は倫理や道徳、良識とされてる「内側」を無批判に称賛しまくるのは良くないなって思う。「外側」があっての「内側」だし、外側が消えることはなく絶対に必要だから。その上で争ったとしても一線を超えないために、憎しみを抱いて現実を潰さないために、分かることを諦めず強くならなきゃなって話でしたね。おそらく。

 

終わり