雑―諦めとか俯瞰の話
おそらく思ったことがあり、脳みそ宇宙を漂っているのでスペースデブリになってロケットにぶつかる前にすくい上げておこうかと思う。
でもなにぶん脳みそ宇宙と言えど宇宙なので広大だ。とりとめがなくなることもさもありなん。
以下
思ったことと言っても最近
『消費資本主義!――見せびらかしの進化心理学』(著:ジェフリー・ミラー 訳:片岡宏仁)
『「いいね!」戦争――兵器化するソーシャルメディア』(著:P・W・シンガー、エマーソン・T・ブルッキング 訳:小林由香利)
って本を買って、ちょっとだけ読んだ。まだ一章とか二章とか。それでも久しぶりにちゃんと本を読んでるので脳みそがふわふわしてるだけ。
本のタイトルを見ると分かる通り、この男、どうにかこうにかこのインターネットを介したマーケティングの呪縛をほどこうと必死である。
前者に関して(消費資本主義)
数十ページ読んだ感じでは、高級なベンツや買うために働いてエナドリ飲んでこんな本読んじゃったりなんかしてなんで?それは他人に「自分はこんなやつですよ」と見せびらかすためだ。
けど実際に何を「見せびらかしているのか」、ただステータス自慢したいだけならこんなにマーケットは複雑じゃないし変化もしないじゃん。よく分かんないもんも売れてるじゃん。
それに進化心理学で答えていきますよ、って内容ですね。多分。
ちゃんとすると長くなるので「諦め」について。読んだ私が抱いた諦めの話です。
一つは逆張り。私の逆張リズム(逆張りを至上とする架空の主義)の話。
私が今の半分くらいのサイズしかなかった、スタバで言うとカフェラテショートだった時代。
私の周りには腐った不良と変なオタクとその他が居た。そして私は中二病だったので、そのどれにも属したくなかった。オタクなのに。オタクとして一線を画したかった。その結果、逆張りをすることになる。
世の中で流行ってるものには手を出したくないし、ちょっと古い漫画とか読みたいし、面白い妄想をしては「こんな事考えてるの俺だけだなw」とか思っていた。
それが私にとって「クール」で「イケてる」ことだったのだ。
適応度表示
→個々人がどんな性質・特性をもっているのかを他人が知覚できるように示すシグナル
自分はこんな人間だからこんな配偶者を手に入れやすい、血縁者の援助を受けやすい、競合相手に差を見せつけやすい、それが適応度表示だ。安い例を上げれば「ポルシェを買うことで、自分の経済的な能力や社会的地位を見せつけてる」こと。
グッピーのオスは成長に合わせて尾ひれを美しく大きくするが、人間は適応度表示を文化的に独自に発展させる。
特に若者はコレに敏感で「ほかのイケてる奴らが好んで見せびらかしてる文化を踏まえて、何を選んだら自分の能力や趣味や良さをアピールできるか」というのを考える。
つまり私が逆張りをしてたのは「流行りでもない、オタクが今読んでもないものを読む」ことが自分の有益性を示すシグナルだったのである。特に兄を尊敬してたし、漫画のキャラも好きだったからそれがクールだと思ったんでしょうね。
逆張りすることが自分の適応度表示だった。
誰にも好かれない日陰者であることが。
そして現在、問題になってくるのがインターネットだ。
インターネットは日陰者に光を当てた。今まで逆張りだと思ってたものの人気が出てきたのだ。
「誰にも好かれない日陰者」が本当にクールになってしまった。
そういう人間のほうが支持を得るようになっちゃったのである。
そしたらそれはもう、逆張りではない。
逆張リズムは機能しない。
今や日陰者が、かつて私が今の半分くらいのサイズだった頃のモテる不良やより集まり蠢くオタクの位置に居る。
/(^o^)\ナンテコッタイ
だからいつでも逆張りしたい私が逆張りすべきは私自身なのです。
次は「諦め」について。
結局人は自分が「こいつぁクールだぜ」というところを目指すように出来ている。
自分が男なので男目線で語るが、「出来るヤツとして金を儲けて女を侍らすぜ」という気持ちで生きるのも、「そんな生き方は虚しいな。晴耕雨読でゆったり生きよう」と生きるのも、どちらも適応度表示に過ぎないと言えてしまえる。
前者はもちろん、後者もがっつかないのを「クールだ」と思っている。根源の根源のところでは、他者に対する自分アピールでしかない。
自分の周りの生態的ニッチ・社会的ニッチ・市場ニッチに合わせて消費行動を選んでるだけなのだ。
「こういう人たちが好きだから、こういう人の目に留まるようにしたい」「こういう生き方をして配偶者を得たい、支援されたい」
意識せずとも無意識の情動にはそれらの欲求があり、欲求を満たすために行動する。その点ではどんな人間も何も変わらない。
何を選んでも、どんだけ情けなくても、カッコを付けても、根源が同じなら一番選びたいものを選んでしまえばいい。
こんな文章を書いてるのも、ベンツを買ったり筋肉をつけたり化粧を学んだり配信して尊さを見せつけたりと同じアピールで、みな同様に生物としての性から逃れられないのなら、逃れられない中で自分が一番いいやつを選べば良い。
死から逃れられないのならどんな生き方をしたいか。
そんな生き物としての諦め。
マーケティングは優しい実験だ。
「私達が皆様の笑顔のために出来ることはなんでしょう」
この問いかけこそがマーケットを作る。
そして与えられたたくさんの製品で、どうしたら自分の特徴をより上手く見せびらかせるか、どの消費活動が最も自分の適応度表示として優れているか試す。
マーケティングは欲望の坩堝。
どうしたら自分の適応度表示を上手く出来るか、どうしたら自分が満足するのか、と永遠に満ち足りない充足を求めることである。
「私達が皆様の笑顔のために出来ることはなんでしょう」と、
あなたの適応度表示にピッタリの商品は何でしょうか。どうしたら幸せになれますでしょうか。
実は必要とされているのは「物」ではなく「意味」なので、例えばただのガラスのコップよりカワイイパンダの絵が描かれたコップが適応度表示に向いている。
「幸せになるための無形のサービス」が提供されている。そうして人の本能的な欲望を満たすべくいろいろな製品が生まれ、届く。
もちろん、幸せになるためにいろいろなものが作られてるのだから、一概に全部悪いことではない。欲しい物が手に入る、欲望を満たせるのは別にいい。
ただあまり求めすぎても、その先にはなにもない。
言うなれば、禁止されていなければ麻薬類はすっげえ~売れるだろう。簡単に幸せを手に入れられるんだから。
おそらく今だって、麻薬を使うことが「クール」だとされているニッチでは売れてるだろう。
ん?ところで今何の話をしているの?
脳みそ宇宙にて漂流中…。
マーケティングについてまとめると、
これもまた「諦め」だ。
幸せを求めることも、ブランド品や関連された意味、つまり「これを好きな自分はこういう人です」という表示を求めることも、それはとても根源的な欲求で、満たしてくれるのならありがたく受け取る。
どうせ幸せになって、配偶者を得たりステータスを示したりする適応度表示になるのであれば、好きなものを買う。
パンダの絵柄の入ったコップも、喜んでもらうために作ってある。ただそこにあるのは「意味」でしかない。突き詰めれば虚空である。
底なしの善意は塩水のように乾いた喉に注がれていく。
せっかくなら虚空と知ってもなお手にしてよかったと思える虚空を選ぶ。
という「諦め」の話であった…。
後者に関して(「いいね!」戦争)
これは全体としてはインターネットがいかに戦争を変えたか、という内容で、分かりやすいのはISISがネットで傭兵を集めたり戦争の宣伝をしたり、トランプがSNSを上手く使って圧倒的権力を得るなど、主戦場が全く変わってしまったという話。
しかしここで私が読んだのはまだ「インターネット誕生秘話」まで。
インターネットが何を求められて誕生したのか、現在の状況はどうなってるのか。
それがこのブログの表題「俯瞰」の話。
戦争の話はしません。
大雑把にまとめると、インターネットは「インターネットで何でも出来るよう」にしたかった。
それぞれ存在したネットとネットをつなげるものがインターネット。独立したルールや制度が存在する国を、地球とか世界として成り立たせるためのルール。
その後誰でもネットを編纂できるようにHTMLが出来たり、みんながアクセスしやすいようにURLとかハイパーリンクシステムとか作って、今では「画像をアップ」を押せば誰でも画像を見られるようになっている。
これはマーケティングが「あなたが欲しいものはなんですか?」に問い続けた結果でもある。
結局作り手も受け手も「こうしたら満ち足りるんだ!」という信条のもとに変化し産まれたのが現在のインターネットだ。
だけど幸せが良いかどうか分からない。麻薬を見れば分かる。
そうこうしている内にネットは寡占状態になった。インターネットちゃんが与えられる中で最大限の幸せを要求していくと、例えばTwitterやフェイスブック、中国の微信「だけ」がインターネットになった。
この中ではインターネットに求めていること全てができる。LINEはまさにそうで、あの中で友達と連絡が取れて漫画も読めてニュースも見える、買い物もできる。
昔はネットはそれぞれの国があったが今はあたかも巨大なショッピングモールのような「場所」になった。そこで行われているのは「シェア」だ。
本文はまた読んでないけど、恐らくその巨大な「場所」で「シェア」することが兵器となりうることを書いてるんだと思う。
けど私は一部のマニア向けだったインターネットがどんどん一般向けになり、それでもネットと繋がるか/外に出るかの二択を選べた世界がスマートフォンの登場で、全てを持ち運べるようになった現代で、インターネットに向いてるのは誰か、という話をしたい。
現在の典型的ネットユーザーは「統計的には、上海在住の二十四歳の女性である可能性が高い」らしい。
シェアの本質は、「あなたはどう思うか」ではなく、「イエスかノーか」だと思う。HowではなくDoだ。
つまるところ「わかる!」という情動に向いてるのは女性であり、現代のインターネットを上手く使えるのはおそらく女性性を持った人間なんだろう。
ミソジニーと言われてもどうでもいいんだけど、私にとって欲しかったものインターネットにはなくなってしまったということだ。
昔こそネットを繋げるのがインターネットであり、それぞれのネットはそれぞれの住人の欲望を反映させていた。しかし寡占状態、巨大ショッピングモール化し「インターネット化」したネットはネットにとって最も有益なものの幸せを願って変容していく。
現在のネットの成り立ちを俯瞰して見えたので、巨大なSNSや現在「インターネット」と呼ばれているもの、動画配信サイトでもなんでも、「あなたが欲しいものはなんですか?」の問いに答え作られた「商品」に過ぎないと気付いた。
そう考えると、ネットに惑わされることはなく、「私の欲しい商品ではありません」と突っぱねられる。
もしインターネットが自分の住む街なら文句も出ようが、ラーメンを求め高級フレンチに入ってラーメンがないと怒るのは変な話だ。
インターネットは住む街ではない。ショッピングモールである。
私の欲しいものは孤独だった。
脳みそ宇宙にて。
疲れました。
文章の失速具合が見て取れる。
終わり。