ZATSUな話
毒蜘蛛も犬も乳飲み子も
共存すべきだよと言って
偽らざる人がいるはずないじゃん
――『マシンガンをぶっ放せ』Mr.Children
「殺人鬼も聖者も凡人も、共存していくしかないんですね」
とも歌ってる。
25年くらい前の歌詞だけども、本当にそう。現代ではなんと当時よりもっと「こう言うしかない」。
インターネットが寡占状態になり、大きなプラットフォームがインターネットそのものと化した。
双方向性のコミュニケーションが成り立つということは「場」になっている。そして開かれた不特定多数と一堂に会する「場」というのは「パーティ会場」であり、パーティ会場である限りは「その場に沿った素振り」を要求される。パーティ会場でいきなり全裸になったり大声で叫ぶ人は出禁になるし、横暴に振る舞う人はこそこそ噂されて信頼を失っていく。
パーティ会場とはその人の「ひととなり」を観察し、社会(=大衆)に有益かどうかを量る場。そこにおいて、
「人を傷付けないようにしましょう」
「人に優しくしましょう」
「みんなで褒め合いましょう」
と偽らざる人がいるはずないじゃん。
そして、昔は「TVスターと一般人」というように「自分を編集しなければならない人」の境目はハッキリ決まっていた。
でも今はYouTuberやティックトッカー、アルファツイッタラー等、その境目は曖昧になり、誰もが「自分を編集する」。
私も昔、就活する時に就職斡旋所の人の面接アドバイス聞き「自分をよく見せるために嘘をつけってことかい。くだらないねえ」なんて息巻いてたけど、結局今世の中で行われてることは就職活動。みんな自分をよく見せようとしている。
しかもそれは個人でじゃない。
個人でなら別にそれこそ掛け値なく全人類がやっている。
例えば仲のいい友達と仲良くすること、好きな子の気にいるように自分をアピールすること、憧れのあの人みたいになろうとすること。
これは生物ならみんなやっていること。
けど結局SNSで行われてるのは「パーティ会場」で「自分を編集すること」。
特定の誰かじゃなく、みんなに向かってアピールすること。
パーティ会場で「自分は優秀です」とアピールするには「良い人をアピール」する。仲良く楽しく遊べる自分をアピールする。
インターネットはもう「@パーティ会場」になってしまった。
このパーティ会場には面白い人がたくさんいて、「面白いなあ」とみんなで騒いでると、支配人がやって来て「こちらもどうですか?」と別のパーティ会場に案内してくれる。あっちのパーティ会場もこっちのパーティ会場も、自分と同じような人たちが沢山いて、誰かが私達を楽しませてくれる。「あの人が面白いね」「こっちのパーティ会場も楽しいよ」と食事をしながら会話をする。いくつものパーティ会場をめぐりその全てが自分好みだ。一緒に見ている人たちも話が合う。
「ああ、世の中のパーティ会場は全部こうなってるんだな」
これがインターネットの現状で仕組み。エコーチェンバーを生み出し、世界を狭くするサービス「商品」。
幸せを作る。会場の設営者は私達の幸せを願っている。私達も私達を幸せにしようとしている。
人類が誕生して、何百万年、有史から何千年、幸せになろうとしない時代なんてなかったはずだけど、私達は目一杯幸せになったことはない。
幸せはいつでも甘くて苦いコロコロしたキャンディで、頬に入れていると噛み砕きたくなる。