見るなキタ━(゚∀゚)━!

トイレの「小」の方で流せるタイプの文章を書きます。そしてお前を許さない。

THE・ZATSU

俺も大抵、昔から何も変わってなくて、新しいもの好きになったと友達にいうと「ああ、こういうの好きだもんなあ」とか言われる。

 

だからきっとあいつもこいつもガキの頃から大して何かが変わったわけでもなく、今でこそ「あいつって旅行が趣味で、色んな事知ってて、一生懸命に生きながらもいい意味で息が抜けてていいなあ」とか信念や生き様みたいなものを類推できるけど、昔から言葉になんなかっただけでずっとそうだったんだろうな。

 

でも10代の頃の友達って好きなもんは違っても同じような事考えてると思ってた。

 

高校生の時に友達が宇多田ヒカルの『Beautiful World』を歌ってた。

今たまたま聞いたら歌詞に

 

最近調子どうだい?

元気にしてるなら

別にいいけど

 

って聯があって、その友達が大人になった今でも言いそうなんだよな。

 

俺も当時宇多田ヒカルは多少好きだったけど、歌詞は気にしたことなかった。

でもこれを歌った友達は、曲だけじゃなくてこういう歌詞の「生き方」が好きだったのかも知れない。

 

自分て間違ってんのかなって思う時がある。

そんな時は、うんにゃらにゃぴにゃぴぱにゃりあぴあんぴーと独りごちる。みんな上手に生きてんなあ、自分は人に気に入られようとばっかりしちゃうな、誰かに生きてていい保証を担保してほしいなあ。という意味。

けど、みんなそれぞれ違う生き方してきて、みんなそれぞれ違う未来を謳歌していて、みんなそれぞれガキの頃からあんまり変わらず同じ質量の別個体なんだなと思うと、俺もそんな感じでいいかなと思う。

 

この世に希望を持つためには、世界は好ましいとかんがえるひつようはないのだ。世界がそうなることもありえないわけではないと信じられれば、それで足りるとしようではないか。

 

――長田弘『ピーターソン夫人』より

 

終わり

映画『サイレントヒル』

映画『サイレントヒル』見った。

お、面白え…。意外とスッキリするし出し惜しみしない異界やクリーチャー達も良かった。星5!

 

あらすじ

度々外を出歩いたり恐ろしい絵を描く夢遊病の娘。精神病院で見てもらうも一向に治る気配がない。主人公である母親はそんな娘がつぶやく「サイレントヒル」という言葉を手がかりに同じ名前の立入禁止の廃村を見つけ、そこになら娘を治療できる何かがあるはずと娘と2人廃村へ向かう。

警察に追われながらどうにかサイレントヒルに着いたのもつかの間、娘が行方不明になり探すために町を回る。

しかし探している最中に奇妙なサイレンが鳴り響き、なんとその町は姿を一変させ、奇妙なクリーチャーも襲いかかってくる。

自分を追ってきた警官とともに娘を探すため町を探索していくと、なにやら主人公の娘とそっくりの子供が魔女裁判にかけられたことが判明する。その子供が眠る地下奥深くへ向かうと、この町で起きた出来事が明らかになる。

魔女裁判に掛けられたその子は、町の住人を恨み、街に住む神様と同化し町を呪ったのだった。主人公の娘はその子の善の部分として世に放たれた子供であるという。

主人公は彼女の憎しみを晴らすため、神様を体内に宿し、聖なる力で守られている魔女裁判を行った教会に向かい、教会を内側から闇に突き落とすことで神様と同化した子供を召喚。狂信者たちを皆殺しにする。

その後、娘を連れて家に帰った主人公だったが、そこは今までの世界とは違う灰の降る街だった…。

 

みたいな?

 

感想(前置き)

「俺の」好き嫌いを語るよ!

 

感想

めちゃくちゃ良い。

サイレントヒルはなんとな~く実況を見たりして雰囲気の良さくらいは把握してたんだけど、その雰囲気の良さがちゃんと映画にも存在しててとっても良かった。

サイレンが鳴って一旦「神龍が出た!?」ってくらい真っ暗に暗転して金網や赤錆だらけの異世界になるのがもう最高。金網の「こっちと向こうを隔てるけど完全な仕切りではない」ってのが良い。金網の中にヤバい人体いるのとか最高すぎるよな。こういうデザインや美術ってゲームの専売特許なイメージあるから映画で見えて嬉しい嬉しい。クリーチャーだけじゃなくてワールドデザインがそもそも異形・異界ってほんとに意外と少ないのよね。

元がゲームなだけあってクリーチャーもキャラ立ってていいしなあ。序盤に大量のちっちゃい燃えてる子供(?)に追われるシーンなんかも怖くていいよねえ。

デザインに関してはもう「なんか良いわ」くらいしか言えないけど、話も思ったより分かりやすくて良かった。

序盤はよく分からないけど、トイレの中に有刺鉄線で巻かれた死体があるとかそういうハッタリがあったり、それこそデザインの良さで見えた。後半、魔女と呼ばれた子供が眠る地下室へ行くところからすごい面白い。

「そこに魔女は眠る」みたいな瘴気の濃いやべえ場所にエレベーターでがっと下っていくのがもう燃える。サスペリア』の隠し扉から魔女集会のところに向かうみたいな。というか、ゲームの引き返せない最奥って方が俺のルーツとしては正しいか。なんにせよ隔離された異界(地獄)へ向かうのは熱い。

そこから少女の何があったかの説明があって、それもまた分かりやすい。やっぱ日本のゲームだから親しみがあるシナリオなんだろうな。焼かれてから痛みも苦しみも全てが憎しみに変わり、好奇の目すらも許せなかったという(大別すると)嫉妬深さが動機になっていて、日本ぽい湿り気を感じた。ていうか押切蓮介『ゆうやみ特攻隊』好きだから俺。

そこから誰が敵か分かって、主人公が狂信者たちにめちゃくちゃ強気の啖呵を切るのがこれまた、漫画やアニメっぽくて好きだなあ。これも映画じゃあんまりないのよ、言葉でまず戦うって段取り。まず「お前は間違ってる!」って言い合ってからバトルするのが漫画育ちの俺からするとすげえしっくり来るのよね。

で、主人公の内に入れた闇を教会内で開放して教会の中心部に奈落の穴が空き有刺鉄線を纏った少女が降臨されるの、最高すぎる。超かっこいい。地獄の大穴から恨みを晴らすために現れるの良いな~。これもアニメやゲームっぽさだと思うけど、それが良いんだよねえ。

しかも曲がりなりにも教会という「美しいもの」「正しいもの」「清貧」として醜いものや邪魔なものを排除していった空間に、狂信者が隠した「汚いもの」が暴かれるように現れて邪神の如く振る舞うという分かりやすいダークヒーロー感や復讐劇、「悪魔ってかっけえよな!」って感じが最高です。

それに少女が力を手に入れるのに、神に触れるっていうものすごい燃える設定ね。超能力者や霊能力者が迫害で死んで手に負えない悪霊になるとかじゃないからね。そもそも神様みたいな超越的存在がいて手を結ぶからね。燃える世界観だぜ(作中の燃えて灰の降る街と気持ちが燃えるのダブルミーニング

 

オチはよく分からないけど、設定見るかぎりでは例の神様はこの世に顕現したいからそのまま元の世界に帰れるわけねえよなあ!?ってことなんだろうか。力の元凶である神様のストーリーはまだ終わってないぜっていうような。

まあそれはそれで色々妄想が捗っていいっすよね。

 

なんにしてもデザインもいい上に話もしっかり悪いやつを気持ちよくぶっ倒す話で良かった。

 

終わり

映画『オーガストウォーズ』

映画『オーガストウォーズ』見たぞなもし

子供のファンタジック目線で見る戦争って題材の中でもつまんねえ方。星1~2

 

あらすじ

友達のロボットと一緒に悪の帝王を倒す物語に憧れる少年。なのに身の回りでは母親は子供のことなんて考えてない嫌な新しい男と再婚しそう。

そんななか、平和維持軍として活動している元夫が「今はここも安全だから」と息子を預けるように言い、母親も言うことを聞かず新しい父と話もしようとしない息子に少し苛ついてたので送り出すことにする。

しかし平和だと言っていたのも束の間、すぐに戦争がぶり返し戦地となる。

預けた息子のことが心配でたまらない母親はすぐに息子を迎えに飛行機に乗って旅立つ。

息子の方も、楽しく暮らしていたのに、家の人達は敵兵に殺されて一人ぼっちになった上に脳震盪まで起こしてしまう。

母親も戦争中で砲弾が飛び交う中、色んな人と出会いながらどうにか息子のところまで行く。

死にかけている息子を、母親は息子の好きな物語になぞらえて応援し生き抜こうと励まし、なんとか脱出する。

 

感想(前置き)

君は君で僕は僕、そんな当たり前のこと、なんでこんなにも簡単に僕ら、忘れてしまえるんだろう。

好きなものは好き、嫌いなものはどうしたら自分好みになるのかを考えるのが物語作りの大切な訓練になるってピクサーが言ってる。返事は「はぁい!!」

 

感想

子供のファンタジックな妄想VS残酷な現実、という構図は基本的に好き。テラビシアにかける橋』『パンズ・ラビリンス』『怪物はささやく』など…。『ネバーエンディング・ストーリー』もそうかな。

ただまあ面白いかって言うとあんまり面白いのはない。けど好き。

空想のなにかに助けられるってのが好きだから子供じゃなくても良い。『ブリグズビー・ベア』とかさ…。

バンプ「借り物の力で構わない」とかさ、「プレゼントの中の住人たち」とかさ。要はイマジナリーフレンドが助けてくれる。でもそいつらは自分の中にしかいないからいつかはバイバイを告げなきゃならない。けど勇気を出すのは僕自身なのだから大事でもある、大好きだよ。ってそういう話が好きなんだよね。

 

めちゃくちゃ話が逸れました。

 

つーわけで、なんかそういう、子供の楽しい妄想が戦争という大人の勝手な都合で吹き飛ばされていくって話なのかなって思ったんスよ。

一応、そういう話ではあったけどちょっと弱くて…。

 

核は「軽い気持ちで息子を放り投げてしまった母親が、大ピンチに陥った息子を助けに行って関係が回復する」ことだと思うんだけど、だったらまず仲悪いわねって状態をハッキリ見せてほしい。そして息子の「空想好き」なんてのはバッサリ非難する。痛いくらい非難する。

「いつまでも空想に浸ってちゃダメでしょ。今はあなたの新しい父親という現実をしっかり見なさいよ!」。けど昔は一緒に物語を楽しんでた。2人でよく話をしていた。

って冒頭だったら、もうエンディングが見えるのでそこが欲しい。

 

あとは母親が助けに行く理由が「戦争が始まりそうだから」より、「戦争が始まって、息子が今危ない」から助けに行くって方が見てて応援したくなる。

 

息子にも常にピンチが迫る構成のほうが「早く母親来い」と思えるので良い。

 

よく分からん人が出てきてよく分からんかったので、母親がメインで人々と出会い、息子や戦争で死んでいく人の話を聞いてモブのおばちゃんとかに「あなたは取りこぼさないようにね」「ちゃんと謝るんだよ」とか声をかけてもらって邁進するって話だと身が入る。

 

終わり

 

ZATSUな話

毒蜘蛛も犬も乳飲み子も

共存すべきだよと言って

偽らざる人がいるはずないじゃん

 

――『マシンガンをぶっ放せ』Mr.Children

 

「殺人鬼も聖者も凡人も、共存していくしかないんですね」

とも歌ってる。

 

25年くらい前の歌詞だけども、本当にそう。現代ではなんと当時よりもっと「こう言うしかない」。

 

インターネットが寡占状態になり、大きなプラットフォームがインターネットそのものと化した。

双方向性のコミュニケーションが成り立つということは「場」になっている。そして開かれた不特定多数と一堂に会する「場」というのは「パーティ会場」であり、パーティ会場である限りは「その場に沿った素振り」を要求される。パーティ会場でいきなり全裸になったり大声で叫ぶ人は出禁になるし、横暴に振る舞う人はこそこそ噂されて信頼を失っていく。

パーティ会場とはその人の「ひととなり」を観察し、社会(=大衆)に有益かどうかを量る場。そこにおいて、

 

「人を傷付けないようにしましょう」

「人に優しくしましょう」

「みんなで褒め合いましょう」

 

と偽らざる人がいるはずないじゃん。

 

そして、昔は「TVスターと一般人」というように「自分を編集しなければならない人」の境目はハッキリ決まっていた。

でも今はYouTuberやティックトッカー、アルファツイッタラー等、その境目は曖昧になり、誰もが「自分を編集する」。

 

私も昔、就活する時に就職斡旋所の人の面接アドバイス聞き「自分をよく見せるために嘘をつけってことかい。くだらないねえ」なんて息巻いてたけど、結局今世の中で行われてることは就職活動。みんな自分をよく見せようとしている。

 

しかもそれは個人でじゃない。

個人でなら別にそれこそ掛け値なく全人類がやっている。

例えば仲のいい友達と仲良くすること、好きな子の気にいるように自分をアピールすること、憧れのあの人みたいになろうとすること。

これは生物ならみんなやっていること。

 

けど結局SNSで行われてるのは「パーティ会場」で「自分を編集すること」。

特定の誰かじゃなく、みんなに向かってアピールすること。

パーティ会場で「自分は優秀です」とアピールするには「良い人をアピール」する。仲良く楽しく遊べる自分をアピールする。

 

インターネットはもう「@パーティ会場」になってしまった。

 

このパーティ会場には面白い人がたくさんいて、「面白いなあ」とみんなで騒いでると、支配人がやって来て「こちらもどうですか?」と別のパーティ会場に案内してくれる。あっちのパーティ会場もこっちのパーティ会場も、自分と同じような人たちが沢山いて、誰かが私達を楽しませてくれる。「あの人が面白いね」「こっちのパーティ会場も楽しいよ」と食事をしながら会話をする。いくつものパーティ会場をめぐりその全てが自分好みだ。一緒に見ている人たちも話が合う。

「ああ、世の中のパーティ会場は全部こうなってるんだな」

 

これがインターネットの現状で仕組み。エコーチェンバーを生み出し、世界を狭くするサービス「商品」。

幸せを作る。会場の設営者は私達の幸せを願っている。私達も私達を幸せにしようとしている。

人類が誕生して、何百万年、有史から何千年、幸せになろうとしない時代なんてなかったはずだけど、私達は目一杯幸せになったことはない。

 

幸せはいつでも甘くて苦いコロコロしたキャンディで、頬に入れていると噛み砕きたくなる。

雑―諦めとか俯瞰の話

おそらく思ったことがあり、脳みそ宇宙を漂っているのでスペースデブリになってロケットにぶつかる前にすくい上げておこうかと思う。

 

でもなにぶん脳みそ宇宙と言えど宇宙なので広大だ。とりとめがなくなることもさもありなん。

 

以下

 

思ったことと言っても最近

『消費資本主義!――見せびらかしの進化心理学(著:ジェフリー・ミラー 訳:片岡宏仁)

『「いいね!」戦争――兵器化するソーシャルメディア(著:P・W・シンガー、エマーソン・T・ブルッキング 訳:小林由香利)

って本を買って、ちょっとだけ読んだ。まだ一章とか二章とか。それでも久しぶりにちゃんと本を読んでるので脳みそがふわふわしてるだけ。

 

本のタイトルを見ると分かる通り、この男、どうにかこうにかこのインターネットを介したマーケティングの呪縛をほどこうと必死である。

 

前者に関して(消費資本主義)

数十ページ読んだ感じでは、高級なベンツや買うために働いてエナドリ飲んでこんな本読んじゃったりなんかしてなんで?それは他人に「自分はこんなやつですよ」と見せびらかすためだ。

けど実際に何を「見せびらかしているのか」、ただステータス自慢したいだけならこんなにマーケットは複雑じゃないし変化もしないじゃん。よく分かんないもんも売れてるじゃん。

それに進化心理学で答えていきますよ、って内容ですね。多分。

 

ちゃんとすると長くなるので「諦め」について。読んだ私が抱いた諦めの話です。

 

一つは逆張り私の逆張リズム(逆張りを至上とする架空の主義)の話。

 

私が今の半分くらいのサイズしかなかった、スタバで言うとカフェラテショートだった時代。

私の周りには腐った不良と変なオタクとその他が居た。そして私は中二病だったので、そのどれにも属したくなかった。オタクなのに。オタクとして一線を画したかった。その結果、逆張りをすることになる。

世の中で流行ってるものには手を出したくないし、ちょっと古い漫画とか読みたいし、面白い妄想をしては「こんな事考えてるの俺だけだなw」とか思っていた。

それが私にとって「クール」で「イケてる」ことだったのだ。

 

適応度表示

→個々人がどんな性質・特性をもっているのかを他人が知覚できるように示すシグナル

 

自分はこんな人間だからこんな配偶者を手に入れやすい、血縁者の援助を受けやすい、競合相手に差を見せつけやすい、それが適応度表示だ。安い例を上げれば「ポルシェを買うことで、自分の経済的な能力や社会的地位を見せつけてる」こと。

 

グッピーのオスは成長に合わせて尾ひれを美しく大きくするが、人間は適応度表示を文化的に独自に発展させる。

 

特に若者はコレに敏感で「ほかのイケてる奴らが好んで見せびらかしてる文化を踏まえて、何を選んだら自分の能力や趣味や良さをアピールできるか」というのを考える。

 

つまり私が逆張りをしてたのは「流行りでもない、オタクが今読んでもないものを読む」ことが自分の有益性を示すシグナルだったのである。特に兄を尊敬してたし、漫画のキャラも好きだったからそれがクールだと思ったんでしょうね。

逆張りすることが自分の適応度表示だった。

 

誰にも好かれない日陰者であることが。

 

そして現在、問題になってくるのがインターネットだ。

インターネットは日陰者に光を当てた。今まで逆張りだと思ってたものの人気が出てきたのだ。

「誰にも好かれない日陰者」が本当にクールになってしまった。

そういう人間のほうが支持を得るようになっちゃったのである。

 

そしたらそれはもう、逆張りではない。

 

逆張リズムは機能しない。

 

今や日陰者が、かつて私が今の半分くらいのサイズだった頃のモテる不良やより集まり蠢くオタクの位置に居る。

 

/(^o^)\ナンテコッタイ 

 

だからいつでも逆張りしたい私が逆張りすべきは私自身なのです。

 

次は「諦め」について。

 

結局人は自分が「こいつぁクールだぜ」というところを目指すように出来ている。

自分が男なので男目線で語るが、「出来るヤツとして金を儲けて女を侍らすぜ」という気持ちで生きるのも、「そんな生き方は虚しいな。晴耕雨読でゆったり生きよう」と生きるのも、どちらも適応度表示に過ぎないと言えてしまえる。

前者はもちろん、後者もがっつかないのを「クールだ」と思っている。根源の根源のところでは、他者に対する自分アピールでしかない。

 

自分の周りの生態的ニッチ・社会的ニッチ・市場ニッチに合わせて消費行動を選んでるだけなのだ。

 

「こういう人たちが好きだから、こういう人の目に留まるようにしたい」「こういう生き方をして配偶者を得たい、支援されたい」

 

意識せずとも無意識の情動にはそれらの欲求があり、欲求を満たすために行動する。その点ではどんな人間も何も変わらない。

何を選んでも、どんだけ情けなくても、カッコを付けても、根源が同じなら一番選びたいものを選んでしまえばいい。

 

こんな文章を書いてるのも、ベンツを買ったり筋肉をつけたり化粧を学んだり配信して尊さを見せつけたりと同じアピールで、みな同様に生物としての性から逃れられないのなら、逃れられない中で自分が一番いいやつを選べば良い。

 

死から逃れられないのならどんな生き方をしたいか。

 

そんな生き物としての諦め。

 

マーケティングは優しい実験だ。

「私達が皆様の笑顔のために出来ることはなんでしょう」

この問いかけこそがマーケットを作る。

 

そして与えられたたくさんの製品で、どうしたら自分の特徴をより上手く見せびらかせるか、どの消費活動が最も自分の適応度表示として優れているか試す。

 

マーケティングは欲望の坩堝。

 

どうしたら自分の適応度表示を上手く出来るか、どうしたら自分が満足するのか、と永遠に満ち足りない充足を求めることである。

「私達が皆様の笑顔のために出来ることはなんでしょう」と、

あなたの適応度表示にピッタリの商品は何でしょうか。どうしたら幸せになれますでしょうか。

 

実は必要とされているのは「物」ではなく「意味」なので、例えばただのガラスのコップよりカワイイパンダの絵が描かれたコップが適応度表示に向いている。

「幸せになるための無形のサービス」が提供されている。そうして人の本能的な欲望を満たすべくいろいろな製品が生まれ、届く。

 

もちろん、幸せになるためにいろいろなものが作られてるのだから、一概に全部悪いことではない。欲しい物が手に入る、欲望を満たせるのは別にいい。

ただあまり求めすぎても、その先にはなにもない。

 

言うなれば、禁止されていなければ麻薬類はすっげえ~売れるだろう。簡単に幸せを手に入れられるんだから。

おそらく今だって、麻薬を使うことが「クール」だとされているニッチでは売れてるだろう。

 

ん?ところで今何の話をしているの?

 

脳みそ宇宙にて漂流中…。

 

マーケティングについてまとめると、

これもまた「諦め」だ。

 

幸せを求めることも、ブランド品や関連された意味、つまり「これを好きな自分はこういう人です」という表示を求めることも、それはとても根源的な欲求で、満たしてくれるのならありがたく受け取る。

どうせ幸せになって、配偶者を得たりステータスを示したりする適応度表示になるのであれば、好きなものを買う。

 

パンダの絵柄の入ったコップも、喜んでもらうために作ってある。ただそこにあるのは「意味」でしかない。突き詰めれば虚空である。

底なしの善意は塩水のように乾いた喉に注がれていく。

せっかくなら虚空と知ってもなお手にしてよかったと思える虚空を選ぶ。

 

という「諦め」の話であった…。

 

 

 

後者に関して(「いいね!」戦争)

 

これは全体としてはインターネットがいかに戦争を変えたか、という内容で、分かりやすいのはISISがネットで傭兵を集めたり戦争の宣伝をしたり、トランプがSNSを上手く使って圧倒的権力を得るなど、主戦場が全く変わってしまったという話。

 

しかしここで私が読んだのはまだ「インターネット誕生秘話」まで。

インターネットが何を求められて誕生したのか、現在の状況はどうなってるのか。

 

それがこのブログの表題「俯瞰」の話。

戦争の話はしません。

 

大雑把にまとめると、インターネットは「インターネットで何でも出来るよう」にしたかった。

それぞれ存在したネットとネットをつなげるものがインターネット。独立したルールや制度が存在する国を、地球とか世界として成り立たせるためのルール。

その後誰でもネットを編纂できるようにHTMLが出来たり、みんながアクセスしやすいようにURLとかハイパーリンクシステムとか作って、今では「画像をアップ」を押せば誰でも画像を見られるようになっている。

 

これはマーケティングが「あなたが欲しいものはなんですか?」に問い続けた結果でもある。

 

結局作り手も受け手も「こうしたら満ち足りるんだ!」という信条のもとに変化し産まれたのが現在のインターネットだ。

 

だけど幸せが良いかどうか分からない。麻薬を見れば分かる。

 

そうこうしている内にネットは寡占状態になった。インターネットちゃんが与えられる中で最大限の幸せを要求していくと、例えばTwitterフェイスブック、中国の微信「だけ」がインターネットになった。

この中ではインターネットに求めていること全てができる。LINEはまさにそうで、あの中で友達と連絡が取れて漫画も読めてニュースも見える、買い物もできる。

 

昔はネットはそれぞれの国があったが今はあたかも巨大なショッピングモールのような「場所」になった。そこで行われているのは「シェア」だ。

 

本文はまた読んでないけど、恐らくその巨大な「場所」で「シェア」することが兵器となりうることを書いてるんだと思う。

 

けど私は一部のマニア向けだったインターネットがどんどん一般向けになり、それでもネットと繋がるか/外に出るかの二択を選べた世界がスマートフォンの登場で、全てを持ち運べるようになった現代で、インターネットに向いてるのは誰か、という話をしたい。

 

現在の典型的ネットユーザーは「統計的には、上海在住の二十四歳の女性である可能性が高い」らしい。

 

シェアの本質は、「あなたはどう思うか」ではなく、「イエスかノーか」だと思う。HowではなくDoだ。

 

つまるところ「わかる!」という情動に向いてるのは女性であり、現代のインターネットを上手く使えるのはおそらく女性性を持った人間なんだろう。

ミソジニーと言われてもどうでもいいんだけど、私にとって欲しかったものインターネットにはなくなってしまったということだ。

 

昔こそネットを繋げるのがインターネットであり、それぞれのネットはそれぞれの住人の欲望を反映させていた。しかし寡占状態、巨大ショッピングモール化し「インターネット化」したネットはネットにとって最も有益なものの幸せを願って変容していく。

 

現在のネットの成り立ちを俯瞰して見えたので、巨大なSNSや現在「インターネット」と呼ばれているもの、動画配信サイトでもなんでも、「あなたが欲しいものはなんですか?」の問いに答え作られた「商品」に過ぎないと気付いた。

 

そう考えると、ネットに惑わされることはなく、「私の欲しい商品ではありません」と突っぱねられる。

 

もしインターネットが自分の住む街なら文句も出ようが、ラーメンを求め高級フレンチに入ってラーメンがないと怒るのは変な話だ。

インターネットは住む街ではない。ショッピングモールである。

 

 

 

私の欲しいものは孤独だった。

 

脳みそ宇宙にて。

 

疲れました。

文章の失速具合が見て取れる。

 

終わり。

映画『人類滅亡計画書』他

映画『人類滅亡計画書』の他、『シティーハンター THE MOVIE 史上最香のミッション』『のぼうの城』を見たんにゅえ。

 

後ろ2つの映画については作業しながら見たし時間経ってるから、記憶をたどりφ(..)メモメモな感じでの感想

 

『人類滅亡計画書』

人類滅亡をテーマにしたSFが3篇入ってるオムニバス映画だった。3篇とも「SFだなあ」って感じの発想と衒いがあって代わりにドラマや感情が弱い。好きなのは2番目のロボットが悟り開くやつ。SFの短編小説ぽかった。とはいえ星2~3かなあ。

 

あらすじ

1つ目。家族に「旅行に行くから部屋片付けといてね」と言われた主人公が処理した汚え生ゴミが化学変化を起こしゾンビウイルスへと変化。地球は滅亡する

 

2つ目。思考する最新型ロボットが悟りを開きあるお寺で仏として奉らている。制作会社の技術者がやってきて「言うことを聞かないロボットは修理したほうが良い」と言い、制作会社の社長とお寺の人たちで壊す・壊さないの口論になる。その様子を見ていた悟り開きロボットは「私はロボなのでもともと欲求がない。産まれたときから悟りを開いた存在。その私の目からは世界は美しい。人間よ何を恐れるのです」と自ら涅槃に入り活動を停止。人間にとってロボットとは一体どんな存在なのか

 

3つ目。父親の大事なビリヤードボールを傷付けてしまった女の子が慌ててネットでビリヤードボールをお買い物。しかしなんとそのサイトは宇宙人のサイトで、二年後に巨大隕石としてビリヤードボールが届けられる。あと数時間で届くビリヤードボールが地球にぶつかれば地球は滅亡する。どうにか予約をキャンセルせねば、と奮闘するも虚しく地球は滅亡。女の子は「大人になりたかった」といい、そのまま地下で10年の月日が流れる。すると宇宙人がやってきてお届けの捺印を押させて帰宅。滅びたビル街に巨大なビリヤードボールが転がる世界。さあ生きていこう

 

感想(前置き)

愛するということは何かを愛さないということと抱き合わせ。何かを憎むということは何かを深く愛するということと抱き合わせ。みんな!強くなろう!!俺と一緒に!!

 

感想

色んなルートで人類滅亡させてみようって感じの短編3つ。

1つ目(ゾンビ)に関して。

どこが美味しいポイントかいまいち分からん。「考えるより先に行動してしまう」というある種前向きな理念がゾンビになるってのは面白い。けど多分てきとーに言ってるだけで作中の意図とは違うはず。

そうなると別に普通のゾンビものって感じだったし、主人公が良いやつでもない上に普通にゾンビの被害者になるからあんまり興味ないなあ。

恐らく最後、主人公とその彼女がゾンビ状態で出会いリンゴを渡しアダムとイヴになる。って部分が一番の肝なんだろうけど、それがなにか全然伝わってこない。深い意味があろうと頭で考えさせるような話は2流(感覚で面白かった上で考えても更に面白いなら良い)。リンゴ渡すならせめて主人公と彼女をめっちゃ仲良しにしといて欲しかった。

 

2つ目(ニルヴァーナロボ)に関して。

これは発想とか絵が良かった。仏殿にたくさんいるお坊さんの中に一体むき出しのロボがいる。

このロボのデザインが全然人間ぽくなくて、ペッパー君とかに近いTHE・ロボなのが奇妙で良かった。恒川光太郎の『金色機械』思い出したね。

ロボだからそもそも欲求なくて悟り開いた状態なので自意識さえ芽生えれば無の境地に突入できるって考え方も面白い。タイトル忘れたけど昔読んだSF短編で似たようなのあったなあ。80年代傑作選みたいな短編集の下に入ってるやつ。世の中に何も関心がないから人にいくらでも優しくなれて勝手に崇め奉られる。

まあそれはそれとして、特にテーマを象徴するエピソードもなく「人間を超えるロボなんて必要ない」「いや悟りを開いたロボは大事」って口だけの論争が起きるから単純に頭に入ってこないし説得力がない。最後に主人公ぽかった技術者もロボットだったってオチが入るけど何の意味があるのか分からん。

限りなく人間に近いロボットが産まれたら人間の定義はどこに来るのかって話ならブレードランナーの方が面白い。

 

3つ目(ビリヤードボール)に関して。

コメディっぽいSFは好きだけど、特に死にたくない理由とか身近な感情もないし、死ぬ直前の女の子がいう「大人になれると思ってた」って台詞も全くフリがないのでなにこれって感じ。

もっと身近な感じで、子供の頃にしたイタズラのせいで大人になって人類が滅亡する→なんであの時あんなことしたんだろうって悩む→ちゃんと親に謝って許される→家族で滅亡を防ぐ、って流れだったら良い。

 

以上。

総評は微妙ですが、SF短編だと思えばまあ普通かな。涅槃ロボなんかは小説だったらまあまあ面白そう。

 

 

シティーハンター THE MOVIE 史上最香のミッション』

流し見だからふわっと感想だけ。

原作見たことないけどかなり再現度高いんだろうなという雰囲気。バカっぽいし昔の面白いマンガって感じで空気が馴染む。星3~4かなあ。

 

感想

惚れる香水で女好きの主人公に男に惚れさせるとか、相棒のヒロインは女として見ないとか、このご時世でよくやれたなあってボケが結構あって好き。ストーリーは耳で追ってただけだから正味分からん。

 

のぼうの城

流し見なりに良かった気がせんでもない。星3~4くらい

 

感想

これもまた耳で追ってただけなのに加えて、日本の歴史に疎いので余計に分からんかった。

ただおちゃらけて気が抜けてるが実は切れ者の主人公が、最大のピンチで敢えて馬鹿をやり敵を楽しませ、人心を掌握。その状況で撃たれることで敵討ちとして味方の士気を向上させるエピソードはかなり良かった。敵方もその狙いを分かった上でどうするかって駆け引きや、音楽や状況、夜の川辺、バカ騒ぎと対比される目的が分かっている周りの人の緊張感、カッコよかったなあ。銃口を突きつけられた主人公の挑発する目線が最高だった。

監督に樋口真嗣がいるからだと思うけど、水攻めの土石流のシーンが迫力あってめっちゃカッコよかった。カメラワークや演出が良かったのかもなあ。

個人的には主人公がカッコよかったからこいつ一強で、もっと主人公感あると見やすいなあと思う。

 

後半2つの映画に関してはもう一回ちゃんと見たら多分感想変わるのでマジでメモです。当てにならん

 

終わり

映画『翔んで埼玉』

映画『翔んで埼玉』たしま見

結構期待してたけど、原作が3,40年前らしくそのせいなのかちょっとなあ。ギャグ・コメディだからこそやってほしいことがあってそれがないから星3くらいかなあ。ノリ自体は全然好きですけどね。

 

あらすじ

「結婚するからやっとこのだ埼玉から離れて東京で暮らせる」という娘を車で式場まで運ぶ車内ラジオで埼玉の知られざる都市伝説が語られるところから始まる。

東京一強の世界。都会レベルが低い者たちは排他される時代。特に周りの県民は東京に来るには通行手形がないと入県もできない圧政を強いられていた。

そしてそれはある名門学園でも同じで、都会に済む気品あふれる人間が上に立ち、埼玉県民などは下級の人間として差別されていた。

そんな名門学園にある日、ものすごい都会のオーラを放つ男が入学し、その圧倒的な都会の力に学園のトップもあえなく陥落。

しかしその男は実は埼玉県民で、父親の命により東京都の通行手形制度を撤廃させるために活動していた。

東京に潜んで革命を狙っていたが埼玉県民であることがばれ逃亡。その過程で同じく通行手形を撤廃させようと目論む千葉県民と衝突しながらも自身の任務を遂行しようとする。

任務を続けていてると、通行手形がなくならないのは東京都知事が闇通行手形を発行させることで金を儲けているためであることが分かり、埼玉県民と千葉県民は協力して東京に謀反。通行手形の撤廃を認めさせる。

この都市伝説をラジオで聞いた、結婚する娘を送る夫妻は大号泣。まさかの相手側も同じ状況で新郎に「地元愛を持って埼玉で暮らそう」と言われる。都市伝説でそんなバカなと落胆したが、実はその裏では本当に埼玉解放戦線が動いており次は「世界埼玉化計画」を標榜していた…。

 

みたいなので

 

感想(前置き)

好きなものはなにか、嫌いなものはなにか、そして嫌いなものをどう変えたら好きになれるかを考える。それが物語を作る基礎となる。とピクサーの人が言ってました。そのための感想です。

なのでもちろん「この映画の旨味はそこじゃねえ」ってのは分かった上で「うるせえ」と言い放ってますワ。

 

感想

設定がバカバカしくてダメとかそういうのはなくてむしろ好きなんですが、キャラの気持ちまで「ギャグだから」にされると俺はダメなんです。

例えば学園トップのヒロイン(性別とか関係なくポジショニングで使ってます)が主人公に惚れてそこから彼のために尊敬していたお父様に逆らったりするんだけど、俺は惚れるのに理由が欲しい。現実ならかっこいいとか素敵だけでいいけど、フィクションで俺が好きなのは「あ、これは惚れるのも仕方ないな」って分かるくらい主人公が良いやつであることが大事なので、…なんていうか、俺の中で「このヒロインが主人公のために命かける理由ってなに?」ってのがずっと疑問にあった。

そうしたらどれだけ一生懸命やっててもギャグが面白くても入ってはいけない。おそらくそもそもとして主人公の「埼玉県民としての誇りを取り戻す」という行動理由に納得できてなくて、俺としてはそれが一義にあって良いんだけど、奥底では虐げられてる人に手を差し伸べる人であって欲しい。手は差し伸べてるんだけど、「誇りを持て」ということで手を差し伸べてて、俺が見たいのとは逆。

だからヒロインがトップの座を引きずり降ろされて周りの生徒に「こんなものか」と裏切られた時に主人公が「君も並の努力ではここにいないだろう」とかって認めることで仲良くなるとか、そんな感じなら好きだった。

まあ、そう、自分の理想像を言うと、埼玉ってすごいなっていう方向に進むんじゃなくて、そもそも争い合うことに意味はあるのか?って方向の方が好きで、てっきり作中の物語の聞き手である新婦が最後には「土地とか関係なく結婚できるのって、それで幸せかもね」みたいな還り方するのかなって思ってた。

ら、最後まで埼玉ってなんなのよ!って、埼玉をバカにしてて終わりでも埼玉って大バカじゃんで終わったのがあんまり好きじゃない。短い話ならそれでもいいんだけど、2時間あって結構な壮大なサーガを語られたオチが「埼玉県民ってダサいよね」と言ってる人の気持ちも変えられないのはちょっとなあ。

あとは埼玉県民の苦しみってのが俺としては伝わってこなくて、東京都民に見つかったら潰されるとか分かるんだけど、そもそもなんで東京に行きたいのかがないし、だから「可哀想だな」って気持ちも湧かない。

東京行って捕まるんなら東京行かなきゃいいし、それで生活が苦しいというのならそこを描かないと。その上で、でも東京に行ったら排除されるってシーンがあれば解放戦線の説得力も増すかな。

ギャグはギャグでいいし、埼玉VS千葉で出身有名人勝負するところとか好きなんですが、気持ちまでギャグにされるといけ好かないですね。申し訳ないけど。

もしあの場にクレヨンしんちゃんがいたら「オラ埼玉好きだけど争う必要はあるの?」とかGACKTに問いかけてると思うんですよね。「なんで東京にそんなに拘るの?」「埼玉も楽しいゾ」友達も家族もいるし、って言ってる。俺はそういうの期待しちゃってましたね。

「埼玉県民の誇りを取り戻すぞ!」と戦うが内紛が起こったり千葉県民と争ったり「なんだこれは」ってなっちゃうって展開。何度もいうけど俺はそういう方が好き。

オチの「実はこの都市伝説は本当で、裏では世界埼玉化計画が進行していた」というのも、まあある意味都市伝説としては正しいけど、「私を倒しても第2、第3の魔王が現れるだろう」みたいなオチは個人的に気持ちいい終わり方ではない。

 

好きだったのはギャグ設定だからこそ割と冒険感あるスケールのデカさで、列車で危険地帯を通るとか、そういう昔のアニメと子供向け小説みたいな旅路が好きだった。色んな場所に行って戦争みたいになるスケールは好き。

 

まとめ

ギャグもコメディも好き。コテコテのどっかでみたことあるようなテンプレや何その馬鹿げた設定ってのも好き。キャラがどれだけ奇抜でも良い。けどギャグ・コメディだからこそ綺麗事を語って欲しい。

設定をリアルにすればするほど綺麗事って語るの難しくなると思っていて、やっぱり現実って複雑なので「愛が全てだよね」とかなかなか言えない。

でもギャグやコメディ、リアリティレベルの低い子供向け話とかだったらそういう複雑さを全部排除して気持ち勝負に出来る。現実で本当はもっと色んな問題が在るかも知れないところを恣意的に無視して綺麗事を説得力を持って言える。俺は、だから「バカだなあ」って笑える作品が好きなんですよね。

そんな綺麗事を本当かもと思わせるために、気持ちにだけは嘘をついてはいけない。そこの部分までなあなあで「ギャグだからなんとなく熱いでいいんだよ」ですましてはいけないと思う。むしろ気持ちこそコメディの核だと思う。

という俺のこだわりです。他の人がどう考えるかは知らないですけどね。

 

終わり