見るなキタ━(゚∀゚)━!

トイレの「小」の方で流せるタイプの文章を書きます。そしてお前を許さない。

映画『ムーンライズ・キングダム』

映画『ムーンライズ・キングダム』見たんだってさ

犬ヶ島』『グランド・ブダペスト・ホテル』とかのウェス・アンダーソン監督。絵は好きだけど話は…ってのが多かったけど、これはすごく好きでした。星5

 

あらすじ

1965年のちっさい島での出来事。孤児で尖ってるからみんなに嫌われている主人公の少年が、両親は居るけど両親のことが嫌いで尖っている少女に出会いお互い恋をする。

ボーイスカウトをやっていたある日、主人公はキャンプ場から脱走し、大人たちや他のボーイスカウトに追われながら、その少女と逃避行する。

逃避行の中で2人はお互いを知り合い愛を深めていき、目的地であったこの島の原住民が働いてた入り江に到着。「ここは僕たちの場所だ」と入り江に名前をつけて2人で愛を交わす。

しかし結局は大人たちに見つかり少女は家族のもとに返され、主人公の少年は里親に見放され少年院に送られることとなる。

2人とも周りの大人達、両親や少年を一時的に預かってくれている警察と話をし、まだ子供だからと言う理由で諭される。

嵐がこの島に向かってきているというニュースの中、主人公と同じボーイスカウトのみんなが主人公の様子を見て「アイツのことをなんでそんなに嫌うんだろう」「あいつの手助けをしてやろう」と決意。再び少年と少女の脱出計画を立てる。

こんどは福祉局やボーイスカウト団体の大本みたいな人たちまで追いかけてきて、最後には雷が落ちる嵐の中、主人公と少女はある塔のてっぺんまで追い詰められる。ここから飛び降りれば死ぬかも知れない。けど飛び降りるしか無い。

最後の決断を下そうとした時、主人公を預かってくれていた警察が「自分が里親になる」それでどうだ、と語りかけてくれる。

主人公はどうにか踏みとどまり、少女も家族と腹を割って話したことで前より仲良くなった。

巨大な嵐が島の形を変えて、2人が愛を誓った入り江も沈んでしまったけど、前よりも島は豊かになったとさ。

 

みたいな

 

感想(前置き)

出力をするための感想なので俺にとっての好き嫌い、ここはもうちょっとこうのほうが好きとか言う。

 

感想

主人公と少女が子供としての居場所もない、逃げ出そうにもここは小さな島でどうにもできない。そんな中でお互い共感しあえる子と出会えた、というプロットがすでに好き。

2人の子供には夢中になれることや譲れぬことがあって、2人の世界があって、そのためになかなか人と上手く話を合わせられなくて、カッとなって手が出ちゃったり、なぜそうしたか言葉にできなかったりする。

ただそんな言葉に出来ないことを言葉に出来ないままで語り合える相手に出会う。世界から開放される。2人だけの世界が生まれる。というのが好きです。セカイ系

主人公の男の子の、ちょっとズレたサバイバル技術や島の地図を作って先住民の入り江に向かうことも、女の子がレコードやお気に入りの本を持ってきて旅のお供にしたり双眼鏡から覗く景色を「遠くにいるのに近くにいるみたいに感じる魔法」と言ったりする理屈じゃない、言い換えれば「子供っぽさ」がすごく愛おしく、そしてそれを2人なら分かち合えることも愛おしい。

男の子がピアスを作ったんだと釣り針にタマムシかなんかを付けて、女の子が素敵といい耳に刺す。

大人や周りの子どもからしたら「そんな事してなんになるの」「釣り針を耳に刺すなんて頭おかしいんじゃないの」「大人になったら後悔するわよ」ってなものだけど、2人にとってはその瞬間はあまりにも「本物」の時間。

2人とも「遠く」に冒険へ行くことを願うのも、本当はそんなものないんだけど、でも願ってしまうのは、ここじゃないどこかならありのままで居られる場所があると祈っているから。

 

そういう子どもたちを大人が「子どもがかかる感冒だ」って蔑ろにせずに、物語の中盤、2人が連れ戻された後話し合ったり、最後に養子になるように手を伸ばしてくれるのがいいなあと思う。

子どもがやったことが正解か不正解か、答えを教えるのではなく、自分たちで答えを出せるまで待つのが大人の役割な気がする。二択でもないと思うしね。

 

印象に残ってるシーンは、2人の手紙のやりとりが明らかになる場面。

「また暴力をふるってしまった。なんでわたしは」みたいにやってしまったことと後悔の冒頭だけ語るのがいいなあ。「弟がやかましいのには同情する。けど君の親はとても」「あなたは孤児だけど両親のことを忘れないでいて。それは」とかって理由が省かれているのが、言葉じゃなくて気持ちが想像できて素敵。余地もあって良い。

 

あとはウェス・アンダーソンらしい色調と画作りがやっぱり綺麗で好き。カラフル。まあそこに関して言えば犬ヶ島グランド・ブダペスト・ホテルのほうがより強めで描かれてて良いが。

 

ムーンライズ・キングダムの意味に関しては、俺としては「夢は夜ひらく」ってことかなあと。あの入り江の小ささがいいよね。すごい小さいんだけど、子どもの目線で見ると、めちゃくちゃ広大で自分たちだけの場所なんだよね。そこに自分たちだけの王国と名付ける。

実際の、映画の中の意味としてのムーンライズの意味はどうでもよくて、あの2人が話し合って「月が昇る王国」と名付けた過程がきっとあって、それが素敵だなあと思う。夜に話をしただろうし、女の子の方は本も好きだったし、男の子は歴史が好きだったから「太陽はみんなのものだけど、月が昇るこの浜辺は僕たちだけの王国だ」とかなんとか。あったらいいなあ。

 

まとめ

2人が引き離された後、主人公に警官が「君はきっと私より頭がいい。けど頭が良くても間違えることはある。君はまだ12歳だ。莫大な未来も広がっている。物事には時間が必要だ。危ないことから子供を守るのが大人の仕事だ」と言われる。

それはそれで正しい。けど誰もが間違いだって言っても、本人にとっちゃ何も間違ってない気持ちで、それを否定されるいわれはない。

猫が通るような塀の上を歩くのは危ないけれど、「そんなことしても危ないだけでいつかバカなことをしていたと分かる」と言われて、何が分かるのだろうか。

そういう子どもの気持ちが描かれているってのが大好きで仕方ない。

本人たちだって、この恋愛感情も、2人が起こしてしまう暴力沙汰と一緒で、分かってるけどどうしようもないことに過ぎないのかも知れないけど。それでも。

「分かってるのにどうしようもないこと」

これもまた描かれているとぐっと惹きつけられるものですね。

 

これが誰にも、特に大人に救われないまま行くとエヴァみたいな話になってしまうのだけど…。

 

この手の子供の話や恋愛の話って大好きなんだなあ

 

終わり

映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』

映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』見たぜ見たぜ見たぜぇ!

 

ネタバレはある

 

まあ、そういう答えに行くよねえという、ちゃんと終わらせるにはそうだよねえというところに帰結。エヴァだから点数は付けられないっす。

 

あらすじは無理です。かなり大雑把に言うと

地球も人類もめちゃくちゃになったせいでシンジくんはめちゃくちゃ落ち込んでいる。そんなめちゃくちゃな世界の中でも成長して楽しく暮らしている大人になったクラスメイト達に会う。シンジくんやレイ、アスカはその村の中で暮らしていく内にそれぞれちゃんと居場所を見つける。

元気が出たシンジくんは自分がやったこと=世界をボロボロにしたこと、だけどそれは故意ではないこと、その重みを見極めてケジメを付けに父親・碇ゲンドウがやろうとしている人類滅亡を止めに行く。

そして最愛の人を失った父親の孤独と対峙したり、他のエヴァンゲリオンチルドレンたちに手を差し伸ばすことで、嫌なこともあるけど良いこともあるこんな世界で生きていく術を各々見つけだして、暮らしていく。

 

って感じ。多分。かなりシンジくんの心情寄りのまとめ方。

 

感想(前置き)

かなり好き勝手言う。みんなにとっての価値とか、映画における良さとか、そんなことは分からないので、俺にとっての価値や好き嫌いの話をします。

 

追伸

見直すと結構辛めのこと言ってるので追伸をまず言う。

エヴァンゲリオンという、ある人にとっては呪いである人にとっては終わらない物語は綺麗に終わった。少なくとも俺は今までのエヴァ作品を見た後のわだかまりや取り込まれるような感覚はなく、言うなればトランス状態から催眠解除音声を聞いたときのような晴れやかさはあった(えっちなたとえですまん)。スタッフロール後の「終劇」が出た時、合掌した。いただきました。ごちそうさまでした。

 

その気持がある上で、そういう気持ちとは別腹で以下

 

感想

「まあ着地するならそうだよなあ」ってのが見終わった感想。セカイ系というか、ブラッドミュージック系というか、すれ違いも争いもない、喜びもない代わりに悲しみもない「理想の世界」を「そうじゃないよ」って言うなら、「日々の暮らしの中でみんな幸せに生きている。生きるということは退屈と戦うことだ」みたいなところに行くよなあ。色んな精神世界閉じこもり系の話、『海辺のカフカ』だったり、なんなら『NARUTO』の無限月読だったりも、現実は痛いけどその痛みも引き受けて、でもだから幸せにだってなるじゃんという帰結。それに「理想の世界に閉じこもる」というけどみんながみんな旧劇シンジくんやゲンドウみたいに閉じこもりたいわけじゃない、今のまま生きて暮らしたい。そう思う人にまで「これが理想だろ?」と押し付けて巻き込むのはエゴじゃんっていうね。

 

余談になるけど、

デジモンラスエボにしても、見てないけどドラクエ5にしても、続きを求められる長寿コンテンツは「虚構ばっか見てんじゃねえよ」ってところに行きたいらしいな。作ってる側はそう思うだろうし、まあ見てる側に対してもそう感じないわけでもないけど、なんだかなあ。ここは俺のフィクションに対する考え方の違いなんだけど、俺は糸井重里の「こっちはなんとかやっていけそうだけど、そっちはだいじょうぶかい?」という問いかけがラストに出来るような話が良いなあと思ってるのよ。

シン・エヴァは、そういう意味ではかなりマイルドな言い回し(物語)だったけど。

 

閑話休題

 

村での生活とかさ、人の暖かさに触れたレイがそのままシンジくんとの適切な触れ合いをして、シンジくんも回復したりとかさ、そこから村で生きたいと願ったレイの思いやそんなレイが愛した村、クラスメイトたちの思いを汲んで戦場に赴くのとかさ、良いんだよ。すごい好きなんだけどさ。

正直そういうのは俺の中で『からくりサーカス』が最強なのよね。(あくまで俺の話)。そしてエヴァンゲリオンからくりサーカスとかとは違う方向性でめちゃくちゃ面白いから面白いのであって、ぶっちゃけると俺の中で想像を超えなかった。エヴァは今でいう『チェンソーマン』『呪術廻戦』とかの領分で、俺の解像度が低くて先が全く予想できなくて、でも面白い作品なのよ。でもシン・エヴァは結構俺の好きなものの領分だったから大体話が予想通りで、しかもそれをめちゃくちゃ超えるってこともなかった。

要するにエヴァに求めているものではなかった。

けど作品としてそうなって欲しい展開ではあった…。

難しいね。

 

身勝手な事言うと、やっぱり旧劇が一番良くて、なぜならめちゃくちゃ虚構(みんなが一つになって気持ちよく人類滅亡する)だから。そもそもアニメにしろ漫画にしろ、そもそも虚構なんだから虚構でいいじゃんって思うんスけどね。

と、言いつつ普通の映画が「虚構にとどまろう」と言うエンドだったら(あくまで俺の理想としては)許さないのでこれもまた難しいですね…。エヴァ旧劇はあれだけすげえスケールで人類滅亡を描いたからみんな一つになりましょうエンドでもあまりに気持ちよくて許せたという後ろ暗い快楽だから。

 

なんてーか、『トイ・ストーリー4』見たときと似た感覚。

作り手としてはキャラクターとしての幸せを作らなきゃってつもりで作ってんだと思うし、ファンからしたらウッディの幸せを見られるんなら面白いってことなんだろうけど、トイ・ストーリー3が完璧だと感じた俺からしたら別にそこはさして重要じゃない。

面白くないとは言わない。だけどそこまでキャラに責任を持つ必要があるのか。幸せにはなって欲しいと思うけど。

例えるなら、ワンピースのルフィが海賊王になったとして、「ルフィの目標は叶えたけど、彼の人生そのものは幸せになったか描ききれてない」とか言って海賊王になった後の話を描くみたいなことで、そこまで別に見たくねえ。そりゃルフィが面白いやつだしきっとその後の人生も面白い話に出来るだろうけどそこまでは良いよ。

あの、俺の考え方がかなり藤田和日郎先生に影響受けてるからさ、『月光条例』描いたあとに藤田先生が言ってた「最終回の後、主人公の月光がどうなるか。それは読者のみんなが考えて良いことなんだよ」ってのが物語の良いあり方なのかなと思う。終わった物語の主人公がどうなるか、それは読者が彼ら彼女らを幸せにしてやれば良いんだよ。

だからトイ・ストーリーも3のその後は見てるほうがウッディの幸せを願えばそれが本当のこと、それでいいじゃん、って思うのよね。

 

また閑話休題

 

トイ・ストーリー4を例に上げて何が言いたかったかと言うと、キャラクターを幸せにしようとしたらまあこうだよねっていう、キャラに対する責任はあるけど、割と惰性というか(失礼な物言いになってしまうけど)、魔王を倒した勇者のその後みたいな、そこまでやる必要性ってあるのかなあ、なんて思っちゃうのよね。

 

ただエヴァは人類補完してしまうと人類が滅びて幸せな未来もないから、想像もできなくて、こうするしかないのかなあとも思う。

 

これは自分に対する気付きだけど、人によっては熱量に感動することがあるらしい。例えばガルパンの戦車描写とか、別になくても良いような圧倒的なこだわりに熱量や愛を感じて感動する人がいるっぽい。だけど俺はあんまりそういうのに感動しなくて、話の好き嫌いと俺の琴線に触れるかっこよさがあるか否かしかないんみたいなんだよね。

シン・エヴァ、たしかに実写みたいなカメラワークがあって、きっと面倒くさいことをすごい技術でやってるんだろうなとか、このシーンって凄いんだろうなって頭では理解できるけど、それで俺のテンションは特にあがらなかった。

 

エヴァという物語、シン・エヴァという作品に対する感想は概ねこんな感じかな…。あとは個別にキャラに対する感想はある。けど殊更口にすることでもないかなあ。

 

真希波マリがそういうポジションに行くというのは意外だった。というか、旧劇エヴァに行かないためにマリが出たのであれば必然ではあるけど、そんな雰囲気もなかったからなあ。

でも、終わってみれば確かにチルドレンの中で一番大人と言うか、陽キャで単純に人が好きなキャラ、人を叱ることも褒めることも出来るコミュニケーション取れるキャラではあるなあと思った。

 

最後リクルートのCMみたいな走り去りかたしたね。

 

考察は分からんけど、設定については、神様が残した運命を変える何某かがセカンドインパクトを入り口とした地球の底に存在して地獄の門虚数宇宙があるっていう超越者や神話的世界が手順によって開かれるってのは燃えます。ゴルゴダオブジェクトとかいう唯一運命を変えらるものとか、それが世界の最下層に眠ってるのとか熱いよねえ。

それとクソデカいもの好きとしてはクソデカい槍がクソデカくて燃えた。

 

単純にカッコいいシーンはあって、覚悟を決めてヴンダーに乗ったシンジくんがめちゃくちゃなってビービーアラートが鳴ってる中で静かに座ってて、ヴィレの大ピンチだ!ってときに無言でスッと立つシーンとか「いやこいつ覚醒した主人公!」って感じでカッコよかった。

毎度のことながら戦闘シーンは良かったし、量子テレポーテーションしてる碇ゲンドウ乗り込む13号機はちょっと笑いそうになったけど。それでいうなら第三東京のビルに膝立てて座るゲンドウ13号機にもちょっと笑いそうになったけど。

 

好きなドラマ部分はシンジくんが初号機で父親を追いかけようとするのを、ニアサードインパクト(シンジくんが起こした災害)で家族を亡くした人たちがキレて止めるシーン。自分でも本当はシンジくんだけが悪いんじゃないし、被害者でもあるシンジくんを守りたい気持ちもあってどうしようもないってのが良かった。

その後の、ミサトさんが「未だにシンジくんは私の保護下にある。何が起こってもシンジくんのことは私が責任を取るわ」っていう、柱合会議で炭治郎の妹の責任を冨岡義勇と鱗滝左近次が請け負うみたいなくだりも良かった。

 

あとは上にも書いたけど村でのレイを中心としたやりとりは好きは好きだよ。

 

まとめ

破でわけわからんままミサトさんに「願いを叶えなさい」と背中を押され結果的にニアサードインパクトを起こし、なのにQでめちゃくちゃキレられるシンジくん。お前の身勝手な行動だって言われて、わけわからんけど自責して、カヲル君にたしなめられ、どうやら希望の槍を引き抜けばわけわからんけど許されると分かって、これでどうにかなると思ったらカヲル君が爆死しして、どうしようもなくて失語症になってしまったシンジくん。

だけど、キレてる人はたまたまシンジくんと似た、負った傷を庇えないままの人達ってだけで、ひとたびもっと広いコミュニティに出れば傷付きながらもその傷のおかげで幸せになってる人も居て、結局事象は捉え方次第だって分かってる人たちがシンジくんに優しくしてくれて、なんだよ人を責める人も人と向き合えてないだけじゃないか、僕も僕を楽観も悲観もせず見直して、みんなと向き合おう。生きるってそういうこと。みんなガキシンジなわけなくて、それぞれ成長して気づく人は気づいて、その気付きをシンジくんに教えて一緒に頑張っていけば良い。世界ってそれくらいの広さはあるもんですよ。

 

あとこれ、大人になったとか子供のまんまねとか言ってるけど、適切なコミュニケーションが取れるか、相手のことを思いやれるかってだけの話で大人とか子供の話じゃねえだろって思います。身も蓋もねえ

 

終わり

映画『スター☆トゥインクルプリキュア ほしのうたに想いをこめて』他

映画『スター☆トゥインクルプリキュア ほしのうたに想いをこめて』『スマイルプリキュア! 絵本の中はみんなチグハグ!』見ました。女児?

 

『スター☆トゥインクルプリキュア ほしのうたに想いをこめて』

あらすじ

ひかるちゃんとララちゃん(宇宙人)が瞬間移動能力を持つ小動物みたいな宇宙人と偶然出会う。ひかるちゃんの方はすぐに宇宙人と仲良くなるけど、ララちゃんの方は宇宙人も云うことを聞いてくれなかったり自分勝手な行動を取るせいで険悪に。

迷子になった宇宙人をどうにか見つけたララちゃんは、心配のあまり宇宙人に怒鳴ってしまう。「もう知らない」と帰ろうとするが、宇宙人はごめんなさいって感じで泣きだす。びっくりしたララちゃんはどうにか宇宙人を泣き止ませようと、彼(彼女)の気に入っていた歌を歌って泣き止ませて、仲直りする。

仲良くなったララちゃんと宇宙人、そしてひかるちゃんで瞬間移動能力を使って、ひかるちゃんの行きたかった地球の名所巡りをし、宇宙人に「ユーマ」と名付ける。

しかし、ユーマは実は希少な星のこどもで、名のあるハンターが宇宙から襲来。プリキュアたちはどうにか悪いやつから宇宙人を守る。

悪い奴らをやっつけたあと、星のこどもともお別れすることになるが、ララは寂しくてお別れを嫌がる。その問答の隙を狙って捕まっていたハンターの一人が縄をほどき、星のこどもを奪う。星のこどもは悪いハンターの心を受け取ってしまい悪い星へと成長。地球を飲み込もうとする。

それを止めるためにララとひかるは星に乗り込み説得を試みようとするが、ララは自分がお別れを嫌がったせいでこんなことになっていると落ち込む。ひかるはそんなララに、大切なのはユーマがどうしたいかだと伝え、ララはユーマはきっと宇宙に帰りたいんだと気付く。

どうにかララたちはユーマに気持ちを伝えようとするが、荒れ狂う悪い星の中では声も届かない。もうどうしようもないと思った時、ララはあの歌を思い出す。

そして溢れる気持ちが歌となり、ユーマに届き星は姿を変えていく。

ララとひかるは美しい星の上でララとひかるを足して2で割ったような姿の大人になったユーマに出会い、「またね」とお別れをする。

後日、新しい銀河が生まれたというニュースが届き、いつかロケットに乗って新しい銀河にいるユーマに会いに行こうと笑う。

 

感想(前置き)

好きなこと、もっとこうのほうが「俺にとっては」面白いかな、ってことを語ります。各々好きなラーメンがあると思います。そういうこと。

 

感想

スタプリは見たこと無いけど、なんか評判良かったから映画見ました。

はっきり俺の総評を言うと映画として良い。スケールのデカさとか演出とか展開はすごい。ただ俺がめっちゃ感動する脚本とはちょっとずれてる。けど見せ方がいいので泣ける。後述するけど、スマプリの映画のほうが俺のストレートでめちゃくちゃ好きだった。

 

ララがユーマと仲悪いところから親友になってお別れするってのが核のストーリーだと思うけど、俺だったら序盤もっとユーマと仲悪いってのコミカルに強調するかなあ。妙にテンションが落ち着いてて、それが映画っぽくはあって良いんだけど、なんかこうガチっぽくて…。ユーマが棘でララを攻撃して痛がるシーンとか結構マジだから…。

俺は本当にハッキリ道が見えてる話が好きなので、「ああ、ここで喧嘩して次仲良くなるんだなあ」と分かるほうがいい。

ララがユーマに泣きながら怒鳴るシーンで、おそらくTVシリーズ内でララになんかあったんだろうと推測できる台詞があるんだけど出来ればフラッシュバックみたいな感じでそのシーンを入れて欲しかった…。

あとは悪い奴らがユーマを狙いプリキュアが守るエピソードはバトル漫画厨の俺からするともうちょい燃えるやり方があるけど、戦闘シーン自体はかっこよかった。シャドウ星人の無形なデザインと、炎のやつの戦い方、台詞がいちいちかっこよい。相手をあざ笑う感じとか、負けたプリキュアに対して「気が済んだか?」とか。

俺としては構成はユーマが星の子で金銭的価値が分かる→そんな下らないことのためにユーマは渡せないと怒る→けど負けそうになる→奪われそうになるユーマのために覚醒して勝つ、の方が燃える。本編でも覚醒して勝ってるけど、倒し方が水のやつを2人で倒してその水を炎のやつに掛け力を奪うとか、結局組み合わせの妙で勝ってて残念。

 

ほいで、お別れを嫌がるララのシーン。ここも敵の炎のやつの台詞がめっちゃ良い。お別れでぐずっている間に炎のやつが縄をほどいて脱出してユーマを奪う時「こいつを保護しようがお前らがこの星で飼おうが俺が奪おうが結局は全員自分本意な行動だ。だったら俺も好きなことをさせてもらう!」と、一見感動的に見えるお別れを嫌がるララも「自分勝手で悪者である俺達と同じだ」と一蹴している。エグい台詞で素敵です。

 

そしてこの作品、ここから結構スケールがデカくなっていって素晴らしい。

 

良いものはなかなか言葉にしづらいのだけど、まず星になったユーマを探索するとひかるとララと見に行った地球の名所がカオス的に点在しているのが良い。要は荒れ狂うなかで心象風景のように思い出が現れるのが好きなんですFF7クラウドの心の中とかさ。

そっからなんか想いが歌になって歌い始めて、冷静になると意味分からんのだけど、でもなんかすごい説得力があって歌もめっちゃ良い。間奏でユーマが作中の童謡のメロディーを差し込んでくるのが綺麗で良かったあ。

めちゃくちゃいい曲に乗せて「星が…生まれ変わる…!」て幻想的な風景に変わっていくの、そりゃいいよ。生まれ変わった星のデザインもまた綺麗で良い。

思い出を幻想にした風景の中で「これはユーマの夢」って台詞も、とにかく泣けるほど綺麗なのよ。「地球は、楽しかった?」とか。死ぬ時の風景なのよ。ちょっとこれはもう俺だけの感覚だと思うのだけど、スケールデカい+幻想的風景であればあるほど死に近づき泣ける。

 

全てが終わった後、新しい銀河が誕生したというニュースが入り、「そこにユーマの星もあるのかなあ」に対して「会いに行こうよ、ロケットに乗って!」っていう台詞も、トライセラトップスかよっていう良さ。

 

とにもかくにも幻想的でよかったっす。

 

スマイルプリキュア! 絵本の中はみんなチグハグ!』

あらすじ

園児の主人公星空みゆきは絵本が大好き。けど恥ずかしがりで友だちができなかった。ある日最後のページが破られている絵本を拾い読んでみると、「笑顔でいれば友だちができる」と描いてあって、その通り笑顔でいたら友だちができた。嬉しくなった主人公は「私がこの絵本の続きを描いてあげるからね」と約束をする。

そして月日が経ち、中学生になったみゆきちゃん。

相変わらず絵本が好きな主人公はプリキュア友達と一緒に、絵本フェスティバルに出向く。そこで絵本の映画を見ていると、中から悪い奴らに追われている女の子が飛び出しくる。わけはわからないけど助けてあげると、その女の子は絵本の世界からやってきたという。助けてもらったお礼にプリキュアのみんなは絵本の世界に招待されて、絵本の主人公を体験させてもらえることになる。

しかし、なにやら絵本の主人公たちがみんなめちゃくちゃで本来のストーリーを全うしようとしないので、話がぜんぜん終わらない。なにか変だと思ったら、実は助けた女の子が絵本の世界をめちゃくちゃにしていた。

それもそのはず、女の子は昔、主人公に続きを描いてもらうと約束したのに裏切られた絵本の主人公だったのである。

みゆきちゃんはそのことを謝るが許してもらえない。ボコボコにブチのめされるけど諦めず謝ろうとする。

しかし絵本の主人公を唆している魔王が「そんなのは下らない」と更に絵本の世界をぐちゃぐちゃにする。下らなくないとその力にあらがい戦うみゆきたちをみて絵本の女の子はみゆきを許し、みゆきは力を覚醒させる。みゆきは怒る魔王に対して、「あなたにも笑顔で居てほしいの」と魔王を倒し、絵本の世界はハッピーエンドを迎える。

 

感想(前置き)

所詮「俺の」好みの話です

 

感想

スマプリは20話くらいまで見た記憶がある。単純に元々シリーズのテーマでもある「愛とか希望とかどうせ意味ない」「いやそんなことない!」と笑顔で戦う、ってのがめっちゃ好き。なので、この映画もストレートに良かった。

正直琴線に触れすぎるので、冒頭の「恥ずかしがりが笑ったら友達できた」ってエピソードで泣いた。

 

好きすぎる話なので逆にもっとこうした方が面白いって細かい話はあるのだけど(絵本のキャラの使い方とか)、核の流れは理想なので良いです。

ここだけは、ってところは「もっと憎め」と言ってる魔王がなぜ「憎め」というのかという理由があれば良かった。

俺の妄想。魔王は魔王の絵本に出てくる主人公のニコちゃんが好きで、ずっと一緒にいたくて物語が終わってほしくないのでニコちゃんに「笑顔なんて意味がない」と唆していた、って理由があれば「魔王にも笑顔でいてほしい」とか「物語はハッピーエンドで」とかって帰結にももっと説得力が出るかなと思う。

 

スマプリはまじで戦闘でボコボコにされるのとかどんな時でも笑顔とか、そういうところが大好きなので本当に良い。キャラもテンション高くて楽しくて好き。映画見た後、数話TVシリーズを見返してみたら、みんなちょっとずつ弱いところがあって、例えば主人公は笑顔が魅力なんだけど、転校初日にでは緊張して上手くしゃべれないって部分もあってそういうところが好きだった。

 

 

 

以上2作品の感想。

 

女児?

 

終わり

THE・ZATSU

俺も大抵、昔から何も変わってなくて、新しいもの好きになったと友達にいうと「ああ、こういうの好きだもんなあ」とか言われる。

 

だからきっとあいつもこいつもガキの頃から大して何かが変わったわけでもなく、今でこそ「あいつって旅行が趣味で、色んな事知ってて、一生懸命に生きながらもいい意味で息が抜けてていいなあ」とか信念や生き様みたいなものを類推できるけど、昔から言葉になんなかっただけでずっとそうだったんだろうな。

 

でも10代の頃の友達って好きなもんは違っても同じような事考えてると思ってた。

 

高校生の時に友達が宇多田ヒカルの『Beautiful World』を歌ってた。

今たまたま聞いたら歌詞に

 

最近調子どうだい?

元気にしてるなら

別にいいけど

 

って聯があって、その友達が大人になった今でも言いそうなんだよな。

 

俺も当時宇多田ヒカルは多少好きだったけど、歌詞は気にしたことなかった。

でもこれを歌った友達は、曲だけじゃなくてこういう歌詞の「生き方」が好きだったのかも知れない。

 

自分て間違ってんのかなって思う時がある。

そんな時は、うんにゃらにゃぴにゃぴぱにゃりあぴあんぴーと独りごちる。みんな上手に生きてんなあ、自分は人に気に入られようとばっかりしちゃうな、誰かに生きてていい保証を担保してほしいなあ。という意味。

けど、みんなそれぞれ違う生き方してきて、みんなそれぞれ違う未来を謳歌していて、みんなそれぞれガキの頃からあんまり変わらず同じ質量の別個体なんだなと思うと、俺もそんな感じでいいかなと思う。

 

この世に希望を持つためには、世界は好ましいとかんがえるひつようはないのだ。世界がそうなることもありえないわけではないと信じられれば、それで足りるとしようではないか。

 

――長田弘『ピーターソン夫人』より

 

終わり

映画『サイレントヒル』

映画『サイレントヒル』見った。

お、面白え…。意外とスッキリするし出し惜しみしない異界やクリーチャー達も良かった。星5!

 

あらすじ

度々外を出歩いたり恐ろしい絵を描く夢遊病の娘。精神病院で見てもらうも一向に治る気配がない。主人公である母親はそんな娘がつぶやく「サイレントヒル」という言葉を手がかりに同じ名前の立入禁止の廃村を見つけ、そこになら娘を治療できる何かがあるはずと娘と2人廃村へ向かう。

警察に追われながらどうにかサイレントヒルに着いたのもつかの間、娘が行方不明になり探すために町を回る。

しかし探している最中に奇妙なサイレンが鳴り響き、なんとその町は姿を一変させ、奇妙なクリーチャーも襲いかかってくる。

自分を追ってきた警官とともに娘を探すため町を探索していくと、なにやら主人公の娘とそっくりの子供が魔女裁判にかけられたことが判明する。その子供が眠る地下奥深くへ向かうと、この町で起きた出来事が明らかになる。

魔女裁判に掛けられたその子は、町の住人を恨み、街に住む神様と同化し町を呪ったのだった。主人公の娘はその子の善の部分として世に放たれた子供であるという。

主人公は彼女の憎しみを晴らすため、神様を体内に宿し、聖なる力で守られている魔女裁判を行った教会に向かい、教会を内側から闇に突き落とすことで神様と同化した子供を召喚。狂信者たちを皆殺しにする。

その後、娘を連れて家に帰った主人公だったが、そこは今までの世界とは違う灰の降る街だった…。

 

みたいな?

 

感想(前置き)

「俺の」好き嫌いを語るよ!

 

感想

めちゃくちゃ良い。

サイレントヒルはなんとな~く実況を見たりして雰囲気の良さくらいは把握してたんだけど、その雰囲気の良さがちゃんと映画にも存在しててとっても良かった。

サイレンが鳴って一旦「神龍が出た!?」ってくらい真っ暗に暗転して金網や赤錆だらけの異世界になるのがもう最高。金網の「こっちと向こうを隔てるけど完全な仕切りではない」ってのが良い。金網の中にヤバい人体いるのとか最高すぎるよな。こういうデザインや美術ってゲームの専売特許なイメージあるから映画で見えて嬉しい嬉しい。クリーチャーだけじゃなくてワールドデザインがそもそも異形・異界ってほんとに意外と少ないのよね。

元がゲームなだけあってクリーチャーもキャラ立ってていいしなあ。序盤に大量のちっちゃい燃えてる子供(?)に追われるシーンなんかも怖くていいよねえ。

デザインに関してはもう「なんか良いわ」くらいしか言えないけど、話も思ったより分かりやすくて良かった。

序盤はよく分からないけど、トイレの中に有刺鉄線で巻かれた死体があるとかそういうハッタリがあったり、それこそデザインの良さで見えた。後半、魔女と呼ばれた子供が眠る地下室へ行くところからすごい面白い。

「そこに魔女は眠る」みたいな瘴気の濃いやべえ場所にエレベーターでがっと下っていくのがもう燃える。サスペリア』の隠し扉から魔女集会のところに向かうみたいな。というか、ゲームの引き返せない最奥って方が俺のルーツとしては正しいか。なんにせよ隔離された異界(地獄)へ向かうのは熱い。

そこから少女の何があったかの説明があって、それもまた分かりやすい。やっぱ日本のゲームだから親しみがあるシナリオなんだろうな。焼かれてから痛みも苦しみも全てが憎しみに変わり、好奇の目すらも許せなかったという(大別すると)嫉妬深さが動機になっていて、日本ぽい湿り気を感じた。ていうか押切蓮介『ゆうやみ特攻隊』好きだから俺。

そこから誰が敵か分かって、主人公が狂信者たちにめちゃくちゃ強気の啖呵を切るのがこれまた、漫画やアニメっぽくて好きだなあ。これも映画じゃあんまりないのよ、言葉でまず戦うって段取り。まず「お前は間違ってる!」って言い合ってからバトルするのが漫画育ちの俺からするとすげえしっくり来るのよね。

で、主人公の内に入れた闇を教会内で開放して教会の中心部に奈落の穴が空き有刺鉄線を纏った少女が降臨されるの、最高すぎる。超かっこいい。地獄の大穴から恨みを晴らすために現れるの良いな~。これもアニメやゲームっぽさだと思うけど、それが良いんだよねえ。

しかも曲がりなりにも教会という「美しいもの」「正しいもの」「清貧」として醜いものや邪魔なものを排除していった空間に、狂信者が隠した「汚いもの」が暴かれるように現れて邪神の如く振る舞うという分かりやすいダークヒーロー感や復讐劇、「悪魔ってかっけえよな!」って感じが最高です。

それに少女が力を手に入れるのに、神に触れるっていうものすごい燃える設定ね。超能力者や霊能力者が迫害で死んで手に負えない悪霊になるとかじゃないからね。そもそも神様みたいな超越的存在がいて手を結ぶからね。燃える世界観だぜ(作中の燃えて灰の降る街と気持ちが燃えるのダブルミーニング

 

オチはよく分からないけど、設定見るかぎりでは例の神様はこの世に顕現したいからそのまま元の世界に帰れるわけねえよなあ!?ってことなんだろうか。力の元凶である神様のストーリーはまだ終わってないぜっていうような。

まあそれはそれで色々妄想が捗っていいっすよね。

 

なんにしてもデザインもいい上に話もしっかり悪いやつを気持ちよくぶっ倒す話で良かった。

 

終わり

映画『オーガストウォーズ』

映画『オーガストウォーズ』見たぞなもし

子供のファンタジック目線で見る戦争って題材の中でもつまんねえ方。星1~2

 

あらすじ

友達のロボットと一緒に悪の帝王を倒す物語に憧れる少年。なのに身の回りでは母親は子供のことなんて考えてない嫌な新しい男と再婚しそう。

そんななか、平和維持軍として活動している元夫が「今はここも安全だから」と息子を預けるように言い、母親も言うことを聞かず新しい父と話もしようとしない息子に少し苛ついてたので送り出すことにする。

しかし平和だと言っていたのも束の間、すぐに戦争がぶり返し戦地となる。

預けた息子のことが心配でたまらない母親はすぐに息子を迎えに飛行機に乗って旅立つ。

息子の方も、楽しく暮らしていたのに、家の人達は敵兵に殺されて一人ぼっちになった上に脳震盪まで起こしてしまう。

母親も戦争中で砲弾が飛び交う中、色んな人と出会いながらどうにか息子のところまで行く。

死にかけている息子を、母親は息子の好きな物語になぞらえて応援し生き抜こうと励まし、なんとか脱出する。

 

感想(前置き)

君は君で僕は僕、そんな当たり前のこと、なんでこんなにも簡単に僕ら、忘れてしまえるんだろう。

好きなものは好き、嫌いなものはどうしたら自分好みになるのかを考えるのが物語作りの大切な訓練になるってピクサーが言ってる。返事は「はぁい!!」

 

感想

子供のファンタジックな妄想VS残酷な現実、という構図は基本的に好き。テラビシアにかける橋』『パンズ・ラビリンス』『怪物はささやく』など…。『ネバーエンディング・ストーリー』もそうかな。

ただまあ面白いかって言うとあんまり面白いのはない。けど好き。

空想のなにかに助けられるってのが好きだから子供じゃなくても良い。『ブリグズビー・ベア』とかさ…。

バンプ「借り物の力で構わない」とかさ、「プレゼントの中の住人たち」とかさ。要はイマジナリーフレンドが助けてくれる。でもそいつらは自分の中にしかいないからいつかはバイバイを告げなきゃならない。けど勇気を出すのは僕自身なのだから大事でもある、大好きだよ。ってそういう話が好きなんだよね。

 

めちゃくちゃ話が逸れました。

 

つーわけで、なんかそういう、子供の楽しい妄想が戦争という大人の勝手な都合で吹き飛ばされていくって話なのかなって思ったんスよ。

一応、そういう話ではあったけどちょっと弱くて…。

 

核は「軽い気持ちで息子を放り投げてしまった母親が、大ピンチに陥った息子を助けに行って関係が回復する」ことだと思うんだけど、だったらまず仲悪いわねって状態をハッキリ見せてほしい。そして息子の「空想好き」なんてのはバッサリ非難する。痛いくらい非難する。

「いつまでも空想に浸ってちゃダメでしょ。今はあなたの新しい父親という現実をしっかり見なさいよ!」。けど昔は一緒に物語を楽しんでた。2人でよく話をしていた。

って冒頭だったら、もうエンディングが見えるのでそこが欲しい。

 

あとは母親が助けに行く理由が「戦争が始まりそうだから」より、「戦争が始まって、息子が今危ない」から助けに行くって方が見てて応援したくなる。

 

息子にも常にピンチが迫る構成のほうが「早く母親来い」と思えるので良い。

 

よく分からん人が出てきてよく分からんかったので、母親がメインで人々と出会い、息子や戦争で死んでいく人の話を聞いてモブのおばちゃんとかに「あなたは取りこぼさないようにね」「ちゃんと謝るんだよ」とか声をかけてもらって邁進するって話だと身が入る。

 

終わり

 

ZATSUな話

毒蜘蛛も犬も乳飲み子も

共存すべきだよと言って

偽らざる人がいるはずないじゃん

 

――『マシンガンをぶっ放せ』Mr.Children

 

「殺人鬼も聖者も凡人も、共存していくしかないんですね」

とも歌ってる。

 

25年くらい前の歌詞だけども、本当にそう。現代ではなんと当時よりもっと「こう言うしかない」。

 

インターネットが寡占状態になり、大きなプラットフォームがインターネットそのものと化した。

双方向性のコミュニケーションが成り立つということは「場」になっている。そして開かれた不特定多数と一堂に会する「場」というのは「パーティ会場」であり、パーティ会場である限りは「その場に沿った素振り」を要求される。パーティ会場でいきなり全裸になったり大声で叫ぶ人は出禁になるし、横暴に振る舞う人はこそこそ噂されて信頼を失っていく。

パーティ会場とはその人の「ひととなり」を観察し、社会(=大衆)に有益かどうかを量る場。そこにおいて、

 

「人を傷付けないようにしましょう」

「人に優しくしましょう」

「みんなで褒め合いましょう」

 

と偽らざる人がいるはずないじゃん。

 

そして、昔は「TVスターと一般人」というように「自分を編集しなければならない人」の境目はハッキリ決まっていた。

でも今はYouTuberやティックトッカー、アルファツイッタラー等、その境目は曖昧になり、誰もが「自分を編集する」。

 

私も昔、就活する時に就職斡旋所の人の面接アドバイス聞き「自分をよく見せるために嘘をつけってことかい。くだらないねえ」なんて息巻いてたけど、結局今世の中で行われてることは就職活動。みんな自分をよく見せようとしている。

 

しかもそれは個人でじゃない。

個人でなら別にそれこそ掛け値なく全人類がやっている。

例えば仲のいい友達と仲良くすること、好きな子の気にいるように自分をアピールすること、憧れのあの人みたいになろうとすること。

これは生物ならみんなやっていること。

 

けど結局SNSで行われてるのは「パーティ会場」で「自分を編集すること」。

特定の誰かじゃなく、みんなに向かってアピールすること。

パーティ会場で「自分は優秀です」とアピールするには「良い人をアピール」する。仲良く楽しく遊べる自分をアピールする。

 

インターネットはもう「@パーティ会場」になってしまった。

 

このパーティ会場には面白い人がたくさんいて、「面白いなあ」とみんなで騒いでると、支配人がやって来て「こちらもどうですか?」と別のパーティ会場に案内してくれる。あっちのパーティ会場もこっちのパーティ会場も、自分と同じような人たちが沢山いて、誰かが私達を楽しませてくれる。「あの人が面白いね」「こっちのパーティ会場も楽しいよ」と食事をしながら会話をする。いくつものパーティ会場をめぐりその全てが自分好みだ。一緒に見ている人たちも話が合う。

「ああ、世の中のパーティ会場は全部こうなってるんだな」

 

これがインターネットの現状で仕組み。エコーチェンバーを生み出し、世界を狭くするサービス「商品」。

幸せを作る。会場の設営者は私達の幸せを願っている。私達も私達を幸せにしようとしている。

人類が誕生して、何百万年、有史から何千年、幸せになろうとしない時代なんてなかったはずだけど、私達は目一杯幸せになったことはない。

 

幸せはいつでも甘くて苦いコロコロしたキャンディで、頬に入れていると噛み砕きたくなる。