見るなキタ━(゚∀゚)━!

トイレの「小」の方で流せるタイプの文章を書きます。そしてお前を許さない。

雑談

議論は正しさのパワーバトルではない。

 

そもそも議論で意見が変わることってそんなにない気がする。

 

じゃあなんだろ。たぶん対話ってカテゴリでいいんじゃないかなあ。

 

自分の意見と食い違っても「そんなの間違ってますよ」から始まっちゃいけない。

たとえば「人を殺してもいいか」って議題で相手が「人は殺してもいい」と言ったとしても、まずは「人って殺してもいいのかも」と肯定する。そこから「なんで人って殺しちゃだめなんだろう・殺していいんだろう」って話をするのが良いと思う。

 

前にTwitterRADWIMPS野田洋次郎が「藤井聡太とか才能ある人の遺伝子を国が保存して残していけば」みたいな優生思想なツイートをしててアホみたいに叩かれたが、どんだけアホと思っても、まずは「そうかも」と考えなきゃいけなかったんだろうなあ。

 

「それは優生思想と名前まで付けられている間違った考えです」はい終わり、はテストの丸付けみたいで楽なんだけど思想とか生きてる上で思うことってテストみたいな丸とバツで決められるもんじゃないから、少し大変でも対話していかなきゃなあ。解答がないことは不安なんだけどね。

 

対話では、どんな話もまず「そうかも」と肯定することが大事なんだと思う。

 

でもそれはすごく難しくて、余裕があるから出来るんだろうよ。

 

「人を殺してもいいと思う」「優秀な遺伝子は選りすぐるべきだと思う」に一度賛同することは、自分の足元が一度ぐらつくってことだ。「そりゃだめだろ」って意見に喉を通すと、信じてたことに「お前の信じてることは本当なのか?」と問いかけることになる。

 反対した意見に一度賛成することは、嫌いなやつの生存を認めることになる。嫌いなやつも嫌いなやつでここに存在しなきゃいけないと肯定することになる。

 

いじめられて引きこもっているやつや子どもを殺されて憤っている母親に、「優秀な遺伝子は選りすぐるべきだと思う」「人を殺してもいいと思う」を一度肯定しろ、なんてのは無理な話。

 

相手を肯定するにはすごく力と余裕が必要。

 

一度「人は殺していいと思う」と考えたとしても、自分は自分で「でも俺は人を殺しちゃだめだと思う」とブレずに思い続けられるのは、大変なメンタルが必要だ。

自分を持ち続けることは難しい。

 

ま、要は

Twitterは議論に向いてない(まず「そうかも」と言えるような場じゃない。そんなこと言ったら叩かれる。それに「そうかも」と言っても相手だって返事くれないだろうし)。

議論と称して「はい残念~。それはナチスドイツの時代の思想の延長にあり間違ってます!歴史で答えが出てます!社会的に間違ってます!」と答え合わせのように否定するのは楽だし自分も傷つかないで済むけど、人の思いや考えはマルバツ問題じゃないからね。

でも普段から自分が生きてていいか、自分の立ってる足元がぐらつくような感覚を覚えると、マルバツ(正しさ=社会が許してること=帰属意識)にすがりつかなきゃ立ってられないってこともあると思う。仲間はずれも孤独も怖いしね。本当はちょっとくらいだめだめでもいらんこと言っても友達は増えも減りもしないんだけどね。

 

生きるのってむつかし~。っちゅーことやね。

投げやりな締め!

 

終わり